下タ沢会によせて(覚書)

二男、澤出源佐久 − 澤出家兄弟 −

 話しは例によって横にそれて時代劇の参考資料みたいになってしまったが、寺岡 さんの話しも六代目でボツボツ終りになるが、この六代目の二男のことは、後で書 くといっていたが、忘れないうちに書いておくこととする。それにしても寺岡さん の書いた沢出家由緒書に二男については、「右の者文武に達した云々」と書いている が、長男については、いたともいないとも何んにも書いていない。
 さて鹿角市史第二巻下の鹿角の文教の項に、「著名な人々」として名をあげてい る人の中に、次のように書いている。
 
 「沢出源佐久(椿庵)(1803〜1850)、尾去沢の人、年少の頃内藤天爵(湖南の 祖父)に経史を学び、二六歳の時江戸へ登り、東条一堂の門に入る。按摩や講釈で 学資を得るなど刻苦勉励十年ののち帰郷し、桜庭氏の家臣となって毛馬内に住む。 やがて盛岡にでて家塾を開くや、名声忽ち上がり、常に満堂の盛況を呈したという。」
 同じく鹿角の武術家のところに、沢出善平について、
 「毛馬内桜庭家来沢出善平も山鹿流兵学師範として藩士に召出されている。善平 は沢出椿庵の弟、内藤天爵に長沼流兵学・砲術を学んだ後江戸に入り、幕臣清水俊蔵 就いて同流兵学を極めたという。」
 そして武芸の人々のところに、
 「沢出可禄。桜庭氏家中、兄椿庵の嗣として家を継ぎ、桜庭氏の家宰となる。長 沼流兵学を兄善平に学び、荻野流を桜井忠太夫に学び、百匁筒の抱打の妙技は近内 一人と双璧の名が高かった。戊辰の役戦死、享年四七歳。」
 
 この三人は二男、三男、四男という順序になるかどうかはわからないが、幕末に おける鹿角の有能な人士として知られていたことは、事実なようである。
 なお三男?の善平も戊辰戦争のとき、南部藩鹿角口の総大将家老の楢山佐渡につ いて出陣している。
 また可禄が桜庭氏の家宰になったということは、家宰とは、家長に代って家事を 取りしきる人、というから、大名家でいえば家老といったところか。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]