下タ沢会によせて(覚書)

澤出家のこと

 歴史上といえば大げさだが、下タ沢の地名が出てくるのは、元山が開発された 1600年代の中頃以降になるようだが、寺岡さんの書かれた「尾去沢の由来と元山墓 地廃止に至る迄の経緯」の中の「南部重左衛門と渡辺善太夫との関係及び大坂の戦 ひ」によると、渡辺家(後に沢出に改姓)の先祖は、渡辺綱の末孫で、丹州(丹波 の国、その大部分は今の京都府で、一部は奈良県)の中所に城があったという。
○渡辺綱:坂田公時(金時)、碓井貞光、卜部季武と共に源頼光の四天王といわれ る。この渡辺綱と金時(金太郎)の話しはよくきいたものだが、後の二人について の話しもきいていたと思うがわからなくなった(大江山の鬼退治)。
 
 この丹州城にいた渡辺善太夫は大坂方に味方し、真田幸村の差図によって南部重 左衛門に大坂入城をうながすため、石井善松、小松亦十郎、田中万蔵、岩城清吉を 供にして船にて野辺地湊(青森県)に着船、慶長16年(1611)5月15日西道へ着 く。
 「重左衛門へ上意の趣き聞候処御承知千万の由にて翌月16日上下七拾三人にて野 辺地より船に乗り大坂に着仕り、重左衛門出立の砌留守中万事宜敷御取斗ひ被下可 く旨山師並びに上下の者迄、善太夫儀は拙者同様に相心得諸事差図に随ひ相働き可 旨申置候事故、夫々心置無く差図仕候」ということで、南部重左衛門の後をまかせ られたようである。
 
 一方丹州にあった善太夫の子善衛門は16歳で半蔵と改名、この人豪勇の人で、大 坂夏の陣で奮戦(状況省略)、重症を負い家来14名と重左衛門家来24名を連れて野 辺地湊着、父の下に落ちてきたという(大坂落城、慶長20年(1615)5月8日)。
 
 その後「半蔵事善衛門と改名、寛文6年(1666、元山が開発されたという年にあ たる)尾去沢銅山山中支配検断切支丹家門相調鋪内吟味万事取扱日日奉行所へ相詰 其筋向差図可致旨被仰付其砌仕へ候、家来筋の内尾山武兵衛弟傳右衛門、佐藤幾太 郎、高谷勘兵衛、鈴木朝之助等に候」
 
 とにかくよくわからないが、銅山支配を命じられて、そのとき仕えていたのは、 家来の内のこういう人達であった、ということだろうと思う。
 ということで、半蔵こと善衛門と改名といっているが、16歳の時に善衛門を半蔵 に改えたといっているから、また元にもどしたということか、それはそれとして、 生年がわからないので、16歳のときに大坂夏の陣に参加したと考えれば、尾去沢銅 山支配になった寛文6年は、67才ということになる。

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