次には父の隠居と苗字を沢出に改めたことが書いてある。 「父善太夫儀は下新田入口下沢、下の堤の沢に隠居、道清と名乗天下の景勢を見 居候も正保四年(1647)病死仕り今に此沢、善衛門沢と申候 其節苗字改め渡辺善太夫出候処追々吉事有之に付沢出と相致申候 半蔵事善右衛門当尾去沢に参り重左衛門娘を青山三十郎娘分として縁組致す。」 ということだが、半蔵の父善太夫が下タ沢(住んだ所を後に善衛門沢という)に 隠居して亡くなったのが正保四年(1647)ということだから、半蔵が尾去沢銅山支 配になった年(1666)より19年前ということになる。 この半蔵が先に善衛門と改めたと書いたときに、元の名前(半蔵と改める前)に もどったのかといったが、この縁組のところで、半蔵事善右衛門とあるので、この 方が正しいのかもしれない。 なお重左衛門娘と縁組したとあるのは、重左衛門はもちろん南部重左衛門のこと だと思うが、この重左衛門にはお松という妾があって、女親子が鍋倉に住んでいた という、重左衛門が大坂へ行った後は、善太夫が生活のめんどうをみていたようだ。 お松は重左衛門の死んだ後、十二所に移って念仏庵という庵に建て、名を松月と改 めてその菩提を弔ったという。このお松には娘がいたのではないだろうか(女親子 といっているだけで、その子は男か女かわからないが)、それで半蔵事善右衛門の 嫁さんになった重左衛門娘というのはこのお松の子供ではないだろうか。 青山三十郎という人についてはわからないが、白根(今の小真木)の山先をして いたという青山家が、尾去沢の山先として白根から移ってきたのは、六代目金右衛 門の宝暦九年(1759)といわれているが、青山家は慶長以来続く白根の山先であり、 五代目(宝永の頃、1704〜1711)から代々金右衛門を称しているという。初代は庄 左衛門といったようで、元和四年(1618)隠居し、二代目は勝左衛門といったとい う(青山家のこと、麓さんの鉱山史から)。 となれば、半蔵が大坂の陣のとき(1615)16歳として、それから仮に10年後に嫁 さんをもらったと考えれば(昔は早かったようだがから、もっと前かもしれない)、 二代目勝左衛門の頃ではなかったろうか。 この青山三十郎は青山家の当主(三十郎は家督を継ぐ前の通称と考えて)であっ たか、一族であったかわからないが、何にか白根の青山家と関係があった人ではな いだろうか。尾去沢と白根は同じ南部藩の鉱山として交流があったと思われるから、 半蔵が読めさんをもらうとき、重左衛門は南部藩重罪人として処刑されているので、 表向きその娘を嫁にするというわけにはいかないので、青山家に仮親を頼んだので はないだろうか。 と、以上は私の勝手な憶測だが、青山三十郎については、青山家の文書などみれ ばわかるかもしれない。 |