下タ沢会によせて(覚書)

庵寺などの封建時代 − 尾去沢になぜ正式?の寺院がなかったか −

 ともあれ、これらの庵寺の創建年代をみてみると、
○笹小屋 大慈庵(長泉寺末庵)寛永2年(1625)
○田郡 観音庵(円徳寺 〃 )寛文9年(1669)
○獅子沢 薬師庵( 〃 〃 )享保7年(1722)
○赤沢 独楽庵( 〃 〃 )元文4年(1739)
 但し円徳寺の記録によれば、薬師庵は正徳元年(1711)という。
 
 麓さんの尾去沢・白根鉱山史によると、「川口家文書 − 尾去沢銅山初より鋪口年 数の事 − を検して年代の古いものを挙げると、田郡沢鋪口は又衛門鋪が寛文8年 (1668)の開口、横合においては本鋪の開口が寛文6年(1666)、赤沢では弐番鋪が 元文3年(1738)とある。」、ということは鉱山の初まるのとほぼ時を同じくしてお 寺(庵寺)ができている。あたり前の事かもしれない。
 
 こうしてみると、尾去沢は尾去の長泉寺は別として、鉱山地域には寺院がない。 これについては鹿角市史(第二巻下)ではこういっている、「白根の場合は多くの 寺院が建立されていた。しかし尾去沢銅山の山内には独立した寺院は一ケ寺もなく、 庵寺が数軒あったにすぎない。藩が政策として寛文7年(1667)以降は新規に寺院を 建立させなかったためであろう」といっている。

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