下タ沢会によせて(覚書)

60年目の観音さま

 下タ沢のお寺にあった観音さんを尾去のお寺に納めたことは前に書いたが、話し は昭和59年か60年頃のことであったろうか、もと坊主山に住んでいた加藤貞三さん (円通寺から鉱山野球場に下りて行く坂道の真ん中程に家があった。大分前に西道 口の方に移って、もう加藤さんも奥さんも亡くなった。)が、長泉寺にお参りに来 て、あの下タ沢の観音さんをみて、「この観音様はここにおられたのか、60年ぶり にお会い出来た。私はこの観音様に戦時中三度命を救われた。」といったという (長泉寺の奥さんの話し)。
 加藤さんは元山の大火の頃は、元山に住んでいたのだろう、あの大火の時に元光 庵から観音様を救い出して雪の中に埋めたという。火事の後、埋めたところに行っ てみたが、観音様は見当らなかったという。そして60年ぶりで長泉寺で再会という 次第。

 となれば、誰が雪の中から観音さんを見つけ出して、どういう経緯を経て、下タ 沢のお寺に来て、ご本尊様になったのだろうか。
 去年加藤さんの息子さんと一しょになることがあったので、お父さんが観音さん に三度命を救われた、といっていたそうだが、と聞いてみたが、そういうことはい っていたようだが、具体的なことはわからない、ということだった。加藤さんも奥 さんも、もう亡くなられたので、その話しを聞いていたお寺の奥さんが、いつ、ど こで、どうして、と聞いておられると思うので、もう一度聞いてみたいと思ってい る。
 もしかして沢出正志さんと一緒に下タ沢にヒロコ掘りに行ったのは、この加藤さ んであったかもしれない。一人はハシゴをはせ昇って半鐘をたたく、一人はお寺に かけつけて(家がお寺のそばだったかもしれない)観音さんを救い出す。似たよう な年齢なので、あり得ない話しではないと、尾小百周年記念誌の卒業生名簿をみた ら、加藤さんは沢出さんの一級上、火事のときは高等一年と二年(といっても、な ったばかりだが)一緒に行っても不思議はない。これで一件落着とおもったが、世 の中そうはいかない。
 今、このことを書いていて、ふっと思った。加藤さんは本当に元山に住んでいた のかと。これ、いわゆる天の声、我が家のご先祖さまが、お前、おぼえたふりして、 いいかげんだこというんでネェ、と。そこでまた明治37年の元山交際人氏名(別掲) というのを見直してみたが、「加藤」という人はいない、といっても、それから火 事まで20年もあるから、その間に移ってきたかもしれない、と思ったが、これでは 世の流れが逆だ。もう一度百周年記念誌をみたら、加藤さんは本校(尾去沢)の方 で、沢出さんは元山の卒業生だった。となれば火事の時なぜ元山にたいのか、それ は親類の家か友達の家かがあって、用事があったか、遊びに行ったかしていて、火 事に遭った。それで雪に埋めた観音様を探しに行くまで何日か間があった。そのう ちに観音様はどこかへ行ってしまった。そして再びお目にかかるまで60年の歳月が 流れた、ということだろうと思う(加藤さんは下タ沢とは縁もゆかりもなかったろ うと思うから、(下タ沢に)来てみることもなかったと思う。)。

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