下タ沢会によせて(覚書)

元山部落の団欒(だんらん)

 「前記の通り(これは澤出家関係のこと)元山方面の居住者は、大坂の戦、当時 の先方より落人及び南部重左衛門部下の生残り士卒の子孫と考へられるゝ点は前記 文面中の人数の内に現在此方面の人の苗字の多い事であり、又大ていの家に刀剣の あった事であります。
 京都大坂方面の文化の入込んだと思はるゝ事は、焼失前の元山山神社の御神体は 二尺余りのトリ木で出来た物と聞傳へ居り、その他人体程の座せる右大臣、左大臣 像外、六体程の立派な彫刻像あり、直利の出る前に歌ったと言ふ鶏の額あり其他見 事な額十枚程にて、今では国宝級のものも多数あったと元山出身大舘町の佐藤先生 の御話であります。
 然して此方面一帯、金が出て金鉱掘の為裕福な立派な家が揃ひ、田を持って斗代 を取り、倉あり、牛を飼ひ、越後から米つき来りと言ふたのも此の時代で永い間 に嫁のやり取りで皆親類となり西道御山。五十枚。鶏長根。湧上り。等度々の大直 りにより、からめ節が歌ひ初められ、あの湧上りに鹿角五万石の土地を眼下に見下 し乍ら馬肉(ナンコ)を大鍋で煮て、ドブロク飲み飲み親子花見が絶へなかったと 年寄達が昔咄に言ふ」とある。

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