下タ沢会によせて(覚書)

明治三十七年頃の元山

 記事は前後するが、「明治三十七年在住元山部落交際人氏名」というのがあり、 百三十六人の氏名(省略)に続いて、次のような記事がある。
 「当寛文年中(1661〜1673)より明和(1764〜1772)中頃迄は、からめ節の文句 の通り当地方には金場(選鉱場)床屋(熔鉱場)ありしものと考へらるゝも明治三 十七年頃の当地建物左の通り、
 神社。山神社、八坂神社、愛宕神社、稲荷神社、平野神社
 寺院。元光庵
 諸建物。尾去沢鉱山採鉱課、花輪警察署分署、元山小学校、元山夜学校、鉱山倶 楽部並び寮、医局、採鉱課長宅、選鉱課長宅、採鉱課長次席宅、外役員社宅四戸
 鉢巻山の麓に人夫飯場一棟あり下沢に渡り坑夫飯場一棟外鉱山長屋七棟あり、採 鉱課上側に鉄索場あり。」という。

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