下タ沢会によせて(覚書)

白雲なびく山の上 − 山鳴り静むふところに −

 白雲なびく山の上の元山・田郡から、山鳴りの静むふところの三ツ矢沢に移った私 達の学校、およそ100年の歴史を閉じて早や30年になろうとしている。その時代時代 の流れの中に、たくましく生き、巣立った子供達、私自身も80の声を聞くようにな り、激動の時代といわれた昭和も、平成の世となった。
 「夏草やつわものどもや夢の跡」と芭蕉のまねをするつもりはないが、その跡地 に立てば、まさにその感を深くする。ここに学校があった、と往時をしのぶよすが にもと、両校の図面を載せることにする。
 
元山小学校
「拡大写真」
三ツ矢沢小学校
「拡大写真」
 
 ということで、尾小百周年記念誌にある図面をのせることにするが、ただ田郡の 図面の説明に「元山小学校平面図(明治42年まで使用)」とあり、記念誌をつくっ た当時も別に気をつけてみることもなく、あゝそうか、元山の学校は見たこともな いし、そんなものか、とみすごしていたが、今回何回も記念誌をみているうちに、 「オヤッ」と思った。これは私達が通った田郡の学校ではないか、となればこれは 「明治42年まで」ではなく、「明治42年から」使用、とすべきではなかったか、元 山から田郡に学校を新築して開校式を行ったのが明治42年、と思いながら、三ツ矢 沢学校史の方にはのっていないかとみたら、同じ図面に「元山尋常小学校(田郡) の校舎平面図」と説明がついてのっている。尾小百周年記念誌の編輯に関係した一 人として(しただけで、あなたまかせであったが、それでも校正刷は一応読んだ) どこみていたんだ、と頭をかく次第。

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