下タ沢会によせて(覚書)

卒業生名簿余談

 尾去沢小学校百周年記念誌の巻末にある卒業生名簿には、第1回から第82回(昭和 48年度)卒業生まで全員(もちろん元山田郡三ツ矢沢も含めて)の名前が載ってい るが、私達は普通、第何回卒業という場合は、高等科2年を卒業した時の卒業回数 (第40回)をいってきた(外の学年の人はどういっているかよくわからないが)。 62の厄年(年祝のこと)の時に同級生名簿をつくろうと、100年記念誌を見たら、第 43回となっていた(6年生を卒業した時)。当時高等科に入らなかった人も、上の学 校に行った人もいたので、同級生全員となれば、これが正しいわけですが、大部分 の人は高等科に入ったので、卒業といえば高等科の時と思い、小学校のことは全然 頭になく、したがって小学校卒業は第43回だということは知らずに過してきた、と いうよりも違うなどとは考えてみたこともなかった。

 今回こうして学校のことをみているうちに、学校は明治7年(1874)にできてい る。私達が小学校6年のときは昭和9年(1934)だから、学校ができてからもう60年 にもなる。これじゃ計算が合わないと、もう一度名簿を見直してみたら、第1回は明 治25年(元山も同じ)となっている。それから数えれば43回でいいわけですが、今 度は何んで明治25年が第1回かと思った。その年は学制がどうのということもないよ うなのいで、更めて100周年記念誌の学校の沿革のところを見てみたら、尾去沢の方 は「明治25年5月尾去沢小学校と改称」とあり、元山の方は「明治25年4月独立して 元山小学校と称す」とある。現在の尾去沢小学校は上山に新築して昭和47年9月1日、 校舎落成並びに統合小学校(三ツ矢沢と)としての開校式典を行い、以後9月1日を 開校記念日としている。と同じような考え方で、明治25年を第1回と決めたと思われ る。

 ともかく明治4年に維新政府に文部省が設置されたというから、この年から学制に ついて本格的討議が行われたものと思われる。明治5年には学制が発布されて、上等 と下等にわかれ、下等8等から7等と上に上っていったようだが、年限の問題もあり 私にはよくわからない。

 小学校が義務教育になったのは、明治19年の小学校令で「義務教育を四年とする」 と定められてからで、明治33年に「義務教育を四年に統一する」と改められている。 これは3年でもよい、と認められていたものを廃止したもので、明治40年からは義務 教育は6年になっている、という(私の父は明治22年生れだから当然小学校に行かな ければならなかったわけだが、行きたくなければ行かなくてもよかった、ようなこ とをいっていたから、当時は義務教育といっても、大らかなものであったかもしれ ない)。こうして、昭和の時代に入って行くのだが、

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