下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○浅岡治男さん(思い出)
 ※下新田、昭和19年3月卒業、廃校時PTA会長。
 我々が小学校に入学したのは昭和十三年四月である。
 真新しい制服にランドセル。現代ではこれが普通ですが、当時は制服は別として、 ランドセルはごく少数の限られた人のみが背負うもので、自分は風呂敷に学用品を 入れ、新入学者二十二名と一しょになり、田郡分校の校門をくぐりました。
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 一・二年の思い出としては、新しい仲間が大勢でき、毎日がとても楽しく、又、登 下校に上級生といっしょに片道一時間の通学がなつかしく感じられます。そして自 分としては、初めて映画を見た事です。講堂で部落民もいつしょになり、支那事変 の戦争物でしたが、映写中に時々フィルムが切れて、再映されるまでかなり時間が かかり、その間、皆でがやがやさわいだものでした。
 分校の上側に杉山さんの家があり、前に大きな柿の木があり、秋になると夕日に 映えてとてもきれいな色をしておりました。その柿の木の下に、毎日のように一人 の老人がただづんでおり、じっと生徒達のグランドでの行動をみつめておったもの です。
 我々はだれも杉山さんと呼ぶ人もなく、杉山元帥と呼んだ事を思い出します。軍 隊のえらい人にそういう人があって、似ておるために先生達がつけたニックネーム だそうです。
 我々同級生は、教員の変った数が特別多いように感じられ、小学校六年間で十指 に余る程です。特にその中で、先生とその場がマッチして想い出されるのは、忘れ もしない四年生の十六年十二月八日、世界第二次大戦突入の朝、その日分校周辺は すっぽり雪につつまれ、雪化粧も美しく朝日の差し込む教室で、ストーブを囲んで ガヤガヤさわいでおりますと、木村善三先生が目を真赤に泣きはらして来て、今未 明日本帝国軍隊が米英両国に対して長年のうらみを晴らさんため、戦争状態に入っ たと話され、感情的な先生は、おいおいと号泣されたのを思い出します。  それからは御承知の通り、何事も勝つための撃ちてし止まんを合言葉に、全国民 の苦労が始ったのです。苦労ばかりではありませんでした。楽しい思い出の一つと して、全校遠足がありました。おにぎりとリンゴを持って、足にはわらじをはいた 人もおりましたが、乗物を利用せず、秋の日ざしを全身に浴びて、十二所三哲山、 大葛金山等なつかしい思い出と思います。
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 いよいよ我々も最上級生となり、兄貴分になったような気分になった矢先き、当 時近隣に鳴りひびいた何よりもこわかった柳沢徳治先生が赴任して来たのです。先 生のスパルタ教育で朝から終校時まで、いつもどこかで誰かがしかられておりまし た。その内容はよく叱られもしたし、叱りもしたものだと、今ならばなつかしさを 感じます。おかげさまで同級生の進学率は大変良く、三割近い合格でした。卒業式 には先生の恐ろしさも忘れ、いっしょになり前途を祝し合い、なつかしの母校を後 にして本校に通うようになったのです。
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 昭和16年12月8日、その日私は何にをしていたろうか。数え年で20、鉱山の事務所 に働きに行ってはいたが、きっと皆といっしょに興奮しながらニュースを聞いてい たろう。
 浅岡さんは6年間で先生が10人以上も変ったといっているが、戦争拡大で次々と若 い先生が戦地に赴いたためだろうか。
 また浅岡さんのいう杉山元帥は、元尾去沢鉱山の社長をされた竹原さんの奥さん の安子さん、その妹の優子さん達のお父さんだと思う。私達もたまに行き合うこと はあったが、ペコンとおじぎするだけで、話したこともないが、ヒゲの濃い、そり あとの青々とした、いかにも謹厳といった感じのする人だったと思う。
 本物?の杉山元帥は、杉山ほど満州事変、日中戦争、太平洋戦争の全期間にわた って陸軍の重要ポストに居つづけた将軍も珍しいといわれる。昭和11年11月大将、 18年6月元帥、戦時中は陸軍大臣2度、その他参謀総長、教育総監、派遣軍総司令官 などをしている。昭和20年9月12日拳銃により自決。
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