下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○川上三之助さん(思い出)
 ※元PTA会長、中新田、昭和13年3月卒業。
 私は昭和七年、田郡の元山分教場に入学致しました。
 当時先生は三人で、川口敬助ハル夫婦先生と小山先生でした。私の同級生は男十 名女八名の十八名でした。当時元山分教場には、教員室の前に大きな桜ともみじの 木が二本あり、現在も桜ともみじが青々と葉を花を咲かして居ります。又体操場も 二ツありましたが、私知たち一学年二学期の終り頃、雨もりと生徒数が以前より不 足の理由で、一ケ所解体しました。又小使さんは、川口横之助夫婦さんで、私達の 面倒を見てくれました。
 分教場の玄関の所に大きな鐘をつるして、毎日授業の時間を鐘を合図に、先生生 徒は教室又は体操場に入りました。又奉安所もあり、祝日には教育勅語を先生方は 持参して御読みになりました。現在も奉安所地名で一般にしられて居ります。分教 場は、かわるがわる掃除当番を割り当られ、念入りに掃除しました。一週に一度大 掃除して、分教場は大変きれいでした。当時本校は伊多波校長先生で、分校に見え ると、必ず校内外清潔とほめて下さいました。敬助先生はそれを自慢しておられま した。又毎年桃の節句三月三日は、ひな祭りをやりました。ひな段の前で学芸会を やり、最後には紅白のまんじゅうを貰って、家に帰りました。又八月十五日は分教 場の運動会でした。晩には校庭で大人と盆踊りをやったものです。十二月二十五日 は義士会をやり、むかぼちゃのいとこにを喰べながら、四十七士の物語を本校の先 生方から聞きました。
 ……以下略……

 私は田郡の学校の小使さんは川口さんとは知っていたが、名前は知らなかった。 今、三之助さんが横之助といっているので、そういったのかと思ったが、先生方の 思い出の中で(先生方の思い出は、独立校になってからがほとんどなので、中味は よく読んでいなかった)、松坂吉蔵先生が「用務員は川口権之助氏で、愛称チャー さんで子ども達に好かれたものである」といっているので、横之助とは変った名前 だ、時代劇か芝居にでも出てくるやくざ侍のようだと思ったが、これで納得、権之 助が本当だろうと思った。横之助は三之助さんの覚えちがいというよりも、編集者 の原稿読みちがいか、校正ミスだろうと思う。
 もう無一つ、佐々木康夫という先生(昭和34年4月より1年間おられた)がこんな ことを書いている。
 「自宅から通勤すると一時間以上かゝるので、やむを得ず下新田に宿泊し、食事 は用務員さんのお世話になった。放課後、勤務を終えるとすぐ同僚と二人で用務員 室にかけ込み、一日の出来事を話し合いながら、おばさんの心のこもった料理を味 わうのが、もっとも楽しい一時であった。熱心な日蓮正宗の信者で、一日三回のお 祈りを欠かさず、お昼のお祈りが聞えてくると、昼食の時間だとわかるくらい時刻 が一定していた。私が転任して間もなく病気で退職されたが、現在埼玉県で御子息 と幸わせに暮らしておられるとのことである。」

 これで私達にもなつかしい学校のチャーさんのこともわかったが、私達が学校に 行っていた頃も、小使室でお題目をとなえる声が聞えていたような気がする。  この川口さんには子供がなく、私達より3級くらい上の与吉さんという親類の子供 を養子にされていたと思うから、埼玉県にいる息子さんとは、その人かもしれない。
 また、川口さんの拝んでいたという日蓮正宗は、昔からある宗派だろうと思った が、戦後?創価学会が盛んになったので、そっちとの関係は、と思ってみたが、年 代的には関係があってもおかしくないと思うが、佐々木先生が日蓮正宗とはっきり 書いているのでそれでいゝとして、日蓮正宗というのは、「日蓮宗の一派で日蓮を 宗祖、日興(日蓮門下六老僧の一)を派祖として大石寺(静岡県富士宮市。1290年 (正応3年)日興が開創)を総本山とする、という。創価学会は法華系の新宗教で、 大石寺を総本山とする日蓮正宗の信徒団体。1930年(昭和5年)牧口常三郎と戸田 聖城が創立、1951年(昭和26年)戸田が会長となり、以後急速に発展。1960年(昭 和35年)池田大作が会長となり、宗教政党公明党を結成。」という次第だが、公明 党は皆さんご存知のとおり、創価学会を支持母体とする政治団体。はじめ公明政治 連盟、のち参議院の院内団体として公明会となり、1964年(昭和39年)政党として 結成。ということで、これらのことは、広辞苑の受売りとして、またもどって、

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