下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○内田仙一さん(思い出)
 ※昭和9年3月卒業、下新田、廃校当時鹿角市議会事務局長。
 ……略……
 夏期間の通学は大した事もなかったが、冬期ともなればなかなか大変で、長靴の 上を雪が入らぬよう縄でむすび、腰まである雪を交代でかきわけ(これは上級生が やってくれ、下級生は一番最後になり、おくれないように顔を真赤にして鼻の頭に 汗をかいて頑張るのだが、だんだん遅れて、ひと朝に五・六回は、早くこい、とどな られながらの通学であった。)ながら、一時間もかかり、腰から下はびしょぬれの 状態で、学校につくが、大ていは遅刻なので、乾かす間もなく、そのまま湯気をた てながら着席し授業を受けたので、一時間めは、いつも気分そう快とはいかなかっ た。
 ……略……
 二年生の時は、田郡、上新田の鉱山社宅が解体となり、同級生の過半数が、中沢 、赤沢、城山等に移転し、田郡地区過疎の第一号が行われた年で、担任は川上栄太 郎先生……略……。
 もう一つ忘れられない一つに、田郡の盆踊りがある。校庭の真中に大きな鍋を置 き、それには馬肉が一杯、酒は樽のまま、それを柄杓で飲み馬肉を食べながら、焚 火のあかりで夜の明けるまで踊るのを、校庭の片すみで見た印象、当時は、今のよ うに娯楽施設もなく、年に一度の盆踊りには、全力を傾中したせいか、踊りにも迫 力があったように思う。盆踊りの様子はわかっているが、どうして帰ったか、さっ ぱりわからない。半分ねむりながら帰ったせいであろう。
 ……以下略……

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