下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○工藤六郎さん(思い出)
 ※元PTA会長、大正14年4月入学、中新田、廃校当時伊藤市住(工藤勝雄さんの 弟)。
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 古老の話によると、往時に於てはお盆行事のネブタ流になると、元山勢と田郡勢 がヨコハ入口(田郡の寺より元山へ向う横道)で落合い、気負った若人たちの太鼓 中心の雄壮な熱演が繰り広げられたものだと聞く。
 大正末期に於ても、田郡は個人家屋が約三十五戸内外、その外大切、中沢に会社 住宅があり、又上新田にも現部落を中心として一休沢(永久沢か)に通ずる道路の 両側に会社住宅の立ちならんだ事を記憶して居ります。それに下沢、蟹子沢、合わ せて約二十戸、此の頃三ツ矢沢部落を含めた山陰の一切の中心は元山分校でした。 当時田郡に病院あり商店理髪店、産婆さんといった具合に、田郡へ行けばほとんど の用件が済まされるといった時代でした。
 運動会ともなれば、応援歌に「元山校のさるもとは和銅の昔に名を得たる」「ご の宮高く」など元気一杯歌いながら蟹子沢グランドで、他校選手などを迎えての競 技に楽しかった記憶でいっぱいです。
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 昭和三十四年三ツ矢沢小学校が尾去沢公民館の分館となり、以来歴代校長が分館 長を兼任なさったのですが、名実共に三ツ矢沢小学校が学校教育並に地域社会教育 の中心として住民になくてはならないものとなり、当時の想い出として敬老会の行 事があり、その一環として盆踊り大会(田郡三ツ矢沢合同)を盛大に行った事など が忘れられない想い出です。
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