下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○岩城慶二さん(思い出)
 ※中新田、昭和8年3月卒業
 ……略……
 当時は、国をあげて、日支事変の真最中でした。国家総動員法が施行されて、日 常生活物資に極端にきり詰められ、食糧は配給制度になり、主食に大根の葉を入れ て空腹をしのがねばならない状態にまでなったのである。戦争に勝つためには、衣 食住も犠牲にしなければならないと、靴が破ければ縄を巻いて登校し、服やズボン がきれると何枚もチギを当てて着たものだ。それでも南京かん落の時は、部落民あ げてチョウチン行列を行ったものだ。田郡、上・中・下新田、下タ沢と一晩中山あい の民家をねり歩き、万才、万才と唱えて戦争へのるつぼと浸ったものだ。
 やがて青年学校も開設されて、一日の仕事を終えた青年達が校庭に集まり、各個 教練から突撃の軍事教練をし、今の中学校程度の勉強をしたものだ。
 当時の使丁さんは、通称一本チャーさんで、若い時に発破事故で片手を失ったそ うで、それでも盆踊りの時は得意の一本手を振り上げて、快活に皆と一緒に踊るし、 薪割りでもなんでもできると言う感心な人であった。
 学校の中央廊下には、直径一米のつり鐘をふらさげて、それを、この一本チャー さんが始業時間、休み時間と一日十数回もその一本で力強くたたいて、時間を報じ てくれるのである。あの力強いリズミカルな迫力ある鐘の音が、緑の木々の梢を渡 り、山村の谷あいにひびき渡った。物音一つない静寂な山頂に、この鐘の音が児童 達にも気力を与え、部落文化の中心として、何か心の寄りどころとなるような感が した。
 楽しかったのは、盆踊り、ひな祭り、学芸会、演芸会等で、山かげと言われなが らも、決して他にひけは取らなかった。特に下タ沢からは、優秀なる演芸がひろう された。
 ……以下略……

 今岩城さんが日支事変の最中で、といっているが、何時からそういう呼び方にな ったか、考えている。今次大戦の端緒となった、昭和12年7月7日の盧溝橋事件のは じまったときは北支事変といった。続いて南京陥落(昭和12年12月13日)、後は支 那事変といったと思う。そして16年12月8日の真珠湾攻撃のときから、大東亜戦争と なって終戦をむかえた。と私の頭は単純にそうなっているが(但し私は昭和18年以 降この世にいないので、その後の事はよくわからない)、したがって日支事変とか 日中戦争とは、いつ頃からいったのか、日華事変といういゝ方もあったようだ。ま た太平洋戦争といったのは、戦後今次大戦を総括しているときに、歴史家などがい ゝ出したのではないだろうか(昭和6年の満州事変から数えて15年になるので、15年 戦争ともいうようだ。)。
 今歴史の本などで、いつからどういう風に名称が変っていったかなど、探そうと 思っても、太平洋戦争一本槍?で探せない(書いてある本もあるかもしれないが)。 そういう事は、歴史の本質にかかわることでもないと思うのでどうでもいゝような ものだが、たゞその時代と共に生きてきたものとして、なんとなく気になる。
 それで、これは当時の新聞を見るのが一番いゝのでは、と思ったが、そう簡単に いかない。幸いに今年の8月から9月にかけて十和田図書館で「戦争時代新聞展」と いうのをやったので、見に行こうと思っているうちに、つい行きかねてしまった。

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