下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○川上己代治さん(三ツ矢沢校舎廃止にあたり)
 ※中新田、明治45年入学。
 ……略……
 先輩からの話には明治になり、学制が発令されて三ツ矢沢にも小学校の出来てあ ったことを聞き覚えております。その後間もなく元山に統合され、元山小学校とな ったものだとのことです。場所は元山では不便さもあり、その後田郡に移して、私 共は明治四十五年、田郡にある元山尋常小学校に入学した。その当時生徒が多く、 教室が足りないため、一級うえの人たちは、二・三年の間、元山の旧学校に通学され た。御苦労様でした。
 私共は大正七年三月卒業まで田郡で習いました。小学一年生の七月、明治天皇が 御隠れ遊ばされ、引続き大正になられ、六年生当時元山小学校に御真影を賜われま した。校長川口武哉先生が県までお迎えになり、奉迎の大任を果され、受け持ちの 斎藤豊治先生に伴われて蛙田君(蛭田が正しいと思う、卒業名簿)と尾去沢までお 迎えに参り、旧元山道路を参り、苦労したことが思い出されます。その後陛下の御 真影は如何なされたかは存じませぬが、当時の在学生三百二十数名とききました。
 ……略……
 運動会を思い出して、入学当時、会場は天皇山の上でした。会場準備に机、椅子 の持ち運びでひと苦労したものだ。四年生当時であったと思うが、蟹小沢の下に新 しい会場ができました。(元山下タ沢、田郡、三ツ矢沢)三部落共同で作られ(二 年位で完成)五年生から使用したと覚えております。……略……
 さらに思い出になりますが、元山に山神社があったことで、毎年全校一同お祭り の日には先生に引率されて、参拝に参りました。五月十五日と思っております。石 段をのぼるのは楽しみでした。昔からの服装といいましょうか、なかなか見もので、 女の子でも赤い袴に頭の飾りは美しかった。今頃ではみられんですね。祭りの行事 には、すもうは絶対のものでした。私共はアメを買うのが何よりの楽しみでした。 元山神社は大正十四年の春山火事で元山部落と一緒に大火に会い、元山部落の廃村 となりました。
 ……以下略……

 川上さんも三ツ矢沢に学校のあったことは聞いているようだが、場所などについ てもわからないようだ。またこの思い出の中に6年生のとき、御真影を迎えに行った ことを書いているが、6年生といえば大正6年だから、明治天皇の御真影との交換だ ったのかわからないが(御真影は教育勅語の発布された頃より下付されている)、 それにしても大正6年にもなってから、と思ったが、大正天皇が即位の式を挙げられ たのは大正4年の11月だから、秋田の山の中までくるのに時間がかかったのかもしれ ない。本校の方ではたしか、大正5年に郡役所までもらいに行ったという記事があっ たと思うから、田郡の方は1年おくれているから、県まで校長先生が行ったというの は、郡役所に行ったのを川上さんが記憶ちがいしているのか、あるいは本校より1年 おくれになっているということは、何にか特別の事情があって県まで出向いたのか、 そのへんのところはわからない。またご真影はどうなったろうかといっているが、 それは川上さんも学校に奉安所(御真影や教育勅語を納めておくところ。校庭より 少しはなれて、上新田の方に面した小高い感じになっているところ)があったこと は、十分知っておられると思うので、終戦後のことではなく、大正から昭和に代っ たとき、自分達が迎えに行った大正天皇の御真影のことかもしれない。
 ともあれ私達は、あるのがあたりまえで、御真影も教育勅語も、いつ、どうして、 などと考えてみたこともなかった。
 なお、蟹小沢の運動場は、川上さんによると大正5年に出来たことになるが、私達 も1・2年生の頃(昭和4・5年)はそこで運動会をやったような気もするが、その頃校 庭はどうなっていたろうか、もしかして部落の人達が拡張工事でもしたろうか。5・6 年の頃は校庭で運動会をやった。
 この蟹小沢の運動場は、田郡、三ツ矢沢、元山下タ沢の三部落の人達が出てつく った、と元山、下タ沢を一つに数えているので、元山と下タ沢は一部落(上・中・下 で三ツ矢沢というように)で、元山が大火で消滅後も同じ部落づきあいが続いてい たものと思われる。

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