下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○高田重雄さん(思い出)
 ※初代PTA会長(昭和21年〜)、田郡、大正5年3月卒業。
 ……略……昭和二十四年物置建築小破修理が有りましたが、雨もりが多くなり、 本校の校長先生及び当時の町会議員に即急に修理をお願いし、八月屋根二百十坪ふ きかえ、下見板各部落修理、九月竣工致しました。昭和二十六年二月本校に行き、 校長先生に机、腰掛、校具と分校修理の細部に渡り願い出ました。其の後町長教育 委員会が調査し、建築以来四十余年を経ているので各所の破損が甚しく、町当局と いろいろ検討した結果、三ツ矢沢に移転する事に決定し、九月十五日に解体が始ま り、田郡集会所中新田集会所を仮教室として授業し、その間大変先生方に難儀をか けました。
 部落民は運搬の仕事に協力し、二十七年三月三ツ矢沢分校落成祝賀会を迎えたの です。特に強く印象に残っているのは、昭和二十七年七月の公開授業研究会が催さ れたことです。僻地の沢山の先生方を迎え、熱心に研究が行なわれ、我々PTAもこれ に協力し、会に参加された方々をカンテラを先頭に坑内むを案内し、大変に喜ばれ た事を思い出します。
 ……以下略……

 この高田さんのいう公開授業というのは、僻地の先生方を迎えているようなので、 何んの研究授業であったろうと、この学校史(思い出の含めて)を見直してみたが、 誰も書いていなかった。おそらく僻地校における授業の研究ではなかったろうか、 それにしても新しい学校ができ、新学期が始まってわずか3ケ月、新しい学校に初 めてよその先生方を迎えるということで、PTAの人達も「おらが学校」とほこらし い気持で協力したのではないだろうか。

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