下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○渡部金作さん(三ツ矢沢校舎廃校に当り)
 ※下新田、元町会議員、工藤勝雄さんの同級生。
 ……略……
 田郡校での思い出こは、斎藤ラッパ先生、毎朝会後教室に入るのに、進軍ラッパ を高らかに勇ましく、身の引き締まる思いで、一日の勉強が始まるのでした。ヨイ サの早起会、乃木会、義士祭、それに青年教練と総てが軍事調でした。
 大正十四年四月、元山部落が全焼して以来、鉱山の住宅計画が石切沢、中沢、軽 井沢、松子沢、新堀、城山と移るにつれて、上新田長屋、田郡長屋の引越し、それ に刺激されて各鉱山部落の私宅も次ぎ次ぎ減少、それにともない生徒も不足になり、 複式学級となり、校舎の老朽補修費の年々増加に依って、昭和二十五年より三ツ矢 沢部落に移設の構想があったので、二十六年木村米松町長により町議会に移設議案 提出、七月十日木村町長、石橋助役、梅村主事、川又組が三ツ矢沢地内の校舎敷地 調査が始まり、それからは田郡、下タ沢部落では移転反対存続運動が始まり、三ツ 矢沢部落では土地委員会を設け、地主や町当局に折衝、その間反対部落よりの協力 懇請や敷地位置の二転、三転、借地代の解決、部落での種々なる反対等ありて、数 十回ともなく会合したが、敷地としては町当局の候補地に決定、借地代は当初、町 六、部落四、の負担で解決したが、校舎建設の方は二八八万円で川又組に工事落札 したので、十月一日より田郡校舎解体作業が始まり、分教室として中新田種馬飼育 所にてその間勉強を始めた。
 建設工事は順調に進み、二十七年一月一三日町当局での新校舎落成式典が催され 三学期より新教室での授業が始められた。
 借地々代としては、白米、大豆、ワラの現物納入、現金支払い分配方法証書取り 交し等種々会合があったが、校庭の整地には部落奉仕もあり、七月二十日には田郡 校当時からの部落学校合同運動会を、例年よりおそく炎天下にて盛大に催されたと きには、安堵したものだった。
 ……以下略……

 大体以上のようなことで、喧々諤々の議論もめでたしめでたしとなって、三ツ矢 沢の新しい校舎ができたわけですが、工藤さんは大正7年に田郡の学校に入ったとき は、生徒は250人くらいいたといっており、渡部さんは次第に減って複式学級なった といっておりますが、当時の生徒数をはっきり書いたものが手許にないので、よく わからないが、たゞ三ツ矢沢学校史に大正4年の生徒数を書いているので、それによ ると、
    1年 2年 3年 4年 5年 6年  計
  男 31 41 30 21 24 21  168人
  女 26 21 25 20 27 18  137
  計 57 62 55 41 51 39  305
ということだが、それでは工藤さん達の入った大正7年には何人いたかを、卒業生名 簿(100周年記念誌)によって逆算してみると(大正7年の入学は12年度の卒業、そ のときの2年生は11年度卒業という具合に)、1年26人、2年25人、3年32人、4年26 人、5年32人、6年30人、計171人、わずか3年くらいの間に半分近くに減っている。 工藤さんの記憶が正しいとしても、5〜60人減っている。

 私達のときは(昭和4〜9年)同級生は21人で、全校生徒は120人くらいで、複式学 級であった。
 いつから複式学級になったか、生徒数がどれくらいだったか、などは学校沿革誌 など丹念に見て行けばわかると思うが、それは今後の課題として、この新しい三ツ 矢沢の学校ができたときの生徒数は何人だったか(それはまた田郡の学校の最後の 生徒ともなるわけだが)を学校史の卒業生名簿によって逆算してみたら、1年10人、 2年12人、3年12人、4年18人、5年16人、6年15人、計83人。これが20年たって廃校 になるときは12人。およそ7分の1、時の流れ、世の移ろい、やむを得なかったナー という嘆息をこめて思い出の中に入って行くことにする。

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