下タ沢会によせて(覚書)

下タ沢のこと・尾去沢のこと・御銅山のこと

16、西道御茶屋、躰頭屋敷、慶長年中金があった由。
17、元山に山神堂、大本番役所がある。向い横道は田郡への通用道である。
●、私達が子供の頃よく大人の人達が、「ヨコハ」がどうの、というのを聞いたこ とがあるが、子供にとってヨコハがどこだろうと関係なかったので、確めてみもし なかった。たゞ田郡のお寺(観音庵)から元山の沢に面した崖を真直ぐに横切って 元山に行く狭い道があり、私達も高等科の頃、一二度通ったことがあったが、そこ がヨコハであったかもしれない。
 私達は「ガケ」のことを「ハブ」といった。ハブガケということもあったが、中 途半端とか、半分にした片方をいうときにも使った。それで「ハブ(ガケ、急 斜面)」を横切って行くので「ヨコハブ」がつまって「ヨコハ」になった。
 また似たような言葉に「マブ」があった。これは屋根とか山の峯とかに積もった 雪が、ひさしのようにせり出してくるのをいった。マブかゝって危ねえ、というよ うに。もちろんハブもかゝればマブになる。
 また元山のことを横合ともいったというが、これも田郡から行く横道と下タ沢か ら上って行く道が合う谷間にある部落だから横合といった。これらは何んの根拠も ない私の新説ならぬ珍説なので、本当の事を知っている人は教えて下さい。
26、惣名を尾去沢ととなえる。笹小屋に小屋数20軒余。
●、こゝにいう笹小屋と、「5」の項でいう外沢笹小屋と、どういう関係になるの だろうか。
 とにかく「惣名を尾去沢ととなえる」とはっきり書いているのは、これがはじめ かもしれない。

 それはそれとして、「尾去沢・白根鉱山史」や「鹿角市史」によれば、この地域 全体を「尾去沢」というようになったのは、1600年代の終り頃からのようであり、 古い文書に下タ沢と出てくるのも1700年代の半ば頃のようである。もちろんそれま で下タ沢がなかったわけではなく、元山の中に含まれていたというか、元山と一体 であったものと思われる。
 私達の親や先輩達は、元山に部落があったときに暮らしているから、それは当然 のことで何んの疑問も持たなかったと思うが、私は元山の大火のあったときは三ツ か四ツで何んの記憶もなく、いわば元山のなくなってからの時代に育っているので、 常に下タ沢という頭しかなかった。それで元山から田郡に学校が移ったときに田郡、 元山、三ツ矢沢などお金を寄付しているが、下タ沢がない(三ツ矢沢学校史)。下 タ沢にだって家もあれば子供も学校に通っていたろうに、おかしいナーと思いつゝ 日を過していたが、これで、そうか、となったが、こゝで私達が通った学校に少し ふれてみることにする。

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