下タ沢会によせて(覚書)

元山・下タ沢・尾去沢とは

 話しがめぐりめぐって、また下タ沢にもどって行くわけだが、したがって前に出 てきた話と二重になったり、繰り返しになったりすると思うが、今は頭の中を整理 する余裕もないので、また思いつくまゝ書いてゆくことにする。

 ということで、いつ頃から下タ沢に人が住むようになったか、になるわけですが、 大雑把にいって金山といわれた時代には、元山も下タ沢の名前も出てこないから (先にもいったように、ここらあたりから、58頁あたりに書いた事と重複してくる が、復習するつもりで読んで下さい。)、それから5〜60年して銅山として稼行され た1,600年代の後半からということになると思う(もちろん歴史上、そういう名前が 出てこないから、そういう部落はなかったとか、人が住んでいなかった、とはいえ ないと思うし、また、銅山が発見されて人が住むようになって、そういう部落名を 称したとも考えられると思う。)。とにかくその頃は「尾去沢」という名称自体が なかったようだ。北(南部)十左衛門が尾去沢に金山を発見したという慶長の初め 頃は、五十枚金山とか西道金山とはいっても、「尾去沢○○」とはいわなかったよ うだ。それではどこで尾去沢になったか、といっても今のように何年何月に町にな り、何年何月に市になった、というようなはっきりしたものは、残っていないよう だ。

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