下タ沢会によせて(覚書)

 一日に何里歩いたろう

 とにかく山許からそれぞれの港まで何日かゝったろうか、どこからどこまで何里 何丁、駄賃いくらとは書いてあるが、どこに宿ったかは書いていない。そこで山許 から港までの距離をみてみた。
 野辺地港までの場合は、山許より花輪まで1里、花輪より大湯まで3里29丁余とい う具合に〆里数34里余。
 次は盛岡まで駄送、盛岡より石ノ巻まで川舟として、山許より花輪1里、花輪より 湯瀬村2里24丁という具合にして〆23里7丁余。盛岡新山御舟所から北上川を川帶 (舟偏+帶、かわひらた。吃水の浅い舟)によって領境の黒沢尻まで下し、同所で 更に積かえて石ノ巻港に輸送した。という。
 次は十二所駄送、同所より能代まで川舟ということで、山許より土深井村1里半、 土深井より沢尻村16丁、沢尻より十二所16丁、〆て何里と書いていないが、合計す ると2里14丁。十二所より扇田まで2里2丁、扇田より能代まで15里半、これは舟運。

 さてこの行程、昔の人は足が丈夫だから一日8里(約32K)歩いたとして、野辺地 は4日、盛岡は3日、十二所は往復歩いてもつりがくる。ということになるが、これ はから身での話し、荷物を積んだ牛が相手ではそうはいかない。が、どこに宿って 何日かゝったという記録はない(麓さんの本には、どこかにあるかもしれない)。  そこで、どこからどこまで何里と書いてあるのを見直してみたら、必ず「御銅宿 何兵衛」などと書いている。距離に関係なく、その御銅宿にみんな宿ったものとし て(花輪にも宿ることになる)数えてゆくと、野辺地行きは11泊12日、盛岡行きは 盛岡まで6泊7日、十二所まで2泊3日となる。  更めて距離をみてみると、短くて16丁(土深井〜沢尻など)、普通3〜4里、長く て4〜5里、6里というのもあるが、いくら牛が荷物をつけているといっても、1里や 2里で宿るだろうか、御銅宿といっても、本当に宿る所と、単なる休けい所とあった のだろうか。またどんな役割を果していたろうか、わからない。  それにしても「御銅宿」だ、人間や牛ではない。「御」と敬意を表されて宿をと っている。人間などより「格」が上か。

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