下タ沢会によせて(覚書)


「通り」とは何んだろう

 この銅を運ぶ牛は、福岡通りとか宮古通りとかの村々に割付けたというが、この 「通り」とは何んだろう、といってもその字のとおり、銀座通りでも中央通りでも いゝわけですが、「花輪通り」となれば、そういう名前の町通りはない。そこで漢 字の辞典をみたがピンとこない、が、角川の大字源の「通」の12番目に「土地区画 の単位」とあった。なんとなくわかったような気がしていたら、これは南部藩の行 政区画であった(外の藩のことは知らない)(このことは前にも書いていた。ダブ った)。
 南部藩は領内十郡(北・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀。(将 軍)家光の頃。今は少し違うと思う。)を三十三通に分け、一通に一代官所を置き、 町村を監督させていたという。鹿角は南部23ケ村を「花輪通」、北部45ケ村を「毛 馬内通」とした。それで南部藩最後の殿様にお供してきた上山守古がその日記に 「両鹿角」といったのも、これで合点となった。

 関連リンク:0086「下タ沢はいつ頃から歴史に名が出てくるか」

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