下タ沢会によせて(覚書)

鹿沢までの距離

 さて本題にもどって、下タ沢で掘出した鉱石は「エボ」か「叺」か箱かわからな いが、麓さんの本の「銅山藩営の稼行時代(明治になる100年くらい前から)」の中 に、鉱山で使う年間の資材など列記しているが、その中に「荷形」約12万本、「銅 莚」約1万枚、「上莚」約5千枚などとあるが、荷形というのはどんな形を していたろうか、先にエボを作るときに荷形を入れてつくるとあったが、形が12万 本というと、それを入れてつくるエボの数はどれくらいになるのか、一つの荷形で エボを何個つくれるのか、わけがわからなくなってきた。いずれにせよ木の皮や蔓 でつくったとすれば、鉱石を入れて背負っては、いたみも激しかったとは思うが。 銅莚というのは、出来上った銅を梱包するのに使ったと思うから、私達が荒莚とい った目の荒い薄手の莚ではなかったろうか。上莚というのは、目のこまかい厚手の 莚で、叺もつくったろうし、いろいろ使い道があったと思われる。私達が山に下げ ていった「こだしっこ」もこの莚だった。
 今マインランドの歴史資料館に行くと、このエボの実物もあるし、また鉱山の作 業絵図には鉱石を背負って運んでいるところもえがかれている。

 こうして鹿沢まで鉱石を運んだわけだが、それは山許からどれだけの距離があっ たろうか。私達年代のものにとっては、大体このくらいと頭あんばいで考えること ができるわけだが、「銅山記(岩手県立図書館蔵、鹿角市史資料編第26集)」によ れば、
○田郡よりノ(ハク)方役所迄行程、1203間3尺余(約2K190M)
○元山より 〃 700間(約1,274M)
○元山下沢より 〃 950間程(約1,729M)
○赤沢より 〃 800間(約1,456M)
○赤沢新口より 〃 600間余(約1,092M)
(1間、182CMとして計算)

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