下タ沢会によせて(覚書)

金鉱しょい

 ノ(ハク)下げは下タ沢からいえば、元山を通って鹿沢に行ったと思うが、むしろ ノ(ハク)下げではなく、ノ(ハク)上げだったろうが……
 なんでこんなことを考えたかというと、私達が小学校の高学年の頃だったろうか、 トヨ子さんおじいさんの澤出春吉さんが鉱山から請負をして、下タ沢の若者達が 「金鉱背負い(ショイ)」というのをやったことがあった。どこからどんなものを、 どこへ運んだかおぼえていないが、我の家と義夫の家は14〜5Mはなれていたろうか、 その間は畑になっていて、私の家で作っていた。山ぎわから道路まで20Mぐらいあ ったと思う。道路ぎわわ1M2〜30の石垣になっていた。畑の中程を1尺巾くらいの通 路にしていたが、その通路の下の方を、金鉱を掘るといって、黒土をはだけて掘っ た。上の方は金色ではないが、そんな感じの土で、それを運んでいた。少し掘った ら(2〜30CM)、その下は石をすりつぶした「カス」といった感じのザラザラした茶 色い土だった。それは品位が悪かったのか、間もなく止めたが、掘った跡は一段下 っていた。

 「花輪・尾去沢の民俗(下)」にこんな話しが載っている。
 昭和の初期頃、永久沢の金鉱ゴミ(昔、手掘で金鉱を掘った時、捨てたズリ石) は、人の背により山を越えて製錬まで運ばれた(奈良菊弥)。

 下タ沢の沢出春吉さんや工藤七治(元山の人。大正十四年元山の大火後、田郡に 移住)さんが金鉱ゴミを集めて金を採る仕事をしていた。砕いた金鉱をセリ板に流 す時は、油気が少しでも混じらないように注意しなければならないと言われた。油 気があれば、金は油について流れてしまうので、金選鉱をする女の人達は、煤で手 を洗って油気をなくしてから仕事をした。
 集められた金精鉱は、鉛に包んで皿に入れて炭火で溶かし、火吹竹で吹いて、金 と鉛をわけた。
 田郡・元山・永久沢・崎山から金鉱ゴミを運んだときは、近隣町村から多くの人が 背負人夫にきた。人数は二百人位もいたようだ(照井富衛)。

 問題は、その金鉱ゴミなるものを何に入れて背負ったかだ。叺ではないような気 がした。沈殿に働く女の人達が水を切っておいた沈殿銅を運ぶのに、細長い箱(2.5 尺×1.3尺×1.0尺くらいか、下が少し細くなっていて、底板が開くようになってい た。これ想像で、誰か知っている人がいると思うが)に入れて運んでいたような気 もするので、そんな箱だったろうか。実際にその仕事に働いた人達はみんな亡くな ってしまったので、聞きようもなくなってしまった。

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