下タ沢会によせて(覚書)

松根油

 千荷平といえば、戦時中松根油を取るというので、松の根っこ掘りをさせられた ことを思い出す人も多いことと思う。私は兵隊に行って(昭18/1〜)知らなかった が、妹達も千荷平に松の根っこ掘りに行った、といっていたような気がするが、掘 り出した根っこはどこに運んだろうか。

 それで思い出したが、4〜5年前尾去沢小学校の4年生が社会科の勉強で県道十二所 花輪大湯線(私達は十二所花輪線と思っていたが、いつの間にか大湯まで延びてい た。平成の初め頃よりそういうようになったようだ。鹿角土木事務所の話し)の勉 強をするので、その出来る頃の話しを聞きたいというので、市街地の柳舘計一さん と畠山定雄さんと私と三人で授業に参加したことがあった。
 そのとき担任の先生のつくった資料の中に、「坑内の明りに松根油を使ったので、 坑内がもうもうと煙って先が見えなかった」という話しがのっていた。私は兵隊に 行っていなかったので、本当かな?と思った。私達の頃はカンテラで、カーバイト を使っていた(提灯のこともあった)。水をかけるとジューッと独特のくさいガス が出るので、ガスカンテラともいっていた。私達が坑内を歩いて(毎日通る通路は 決っていた)先が見えない程煙が立ちこめるというのは、近くの切羽で発破がかゝ って、その煙が出てきて、卵のくさったような硫黄の匂に辟易して、鼻をつまんで 息を止めて走り抜けたときぐらいだったので、本当かなと思いながらも、否定も肯 定もできないで、先生は誰からその話しを聞いたか、聞いてみようと思っているう ちに、その先生は転任してしまった。

 この松根油の話しがあった後、誰かその頃のことを良く知っている人がいないか なと思って、2〜3聞いてみたがわからなかった。何にか中新田の方に運んだ、とい う話しも聞いたので、誰か古いことを知っている人と思って、中新田の川上富衛さ んに聞いたことがあったが、カンテラの代りに松根油を使ったという話しは、よく からなかったが、なんでも中新田にも釜?(油を取る設備)があって、海軍から下 士官1人が来ていて、しぼった油はトラックでどこかへ運んで行った、とかいう話し だった。
 油の一滴は血の一滴、といわれて最も大事な軍需品の一つであったと思われるの で、明りに使って坑内が煙でいっばいになるなど考えられない、と思ったが、私達 の同年代の人はほとんど兵隊に行って、いなかったので、誰に聞いてみるともなく そのまゝにしていた。

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