下タ沢会によせて(覚書)

せんがひら

 ところで「一荷」は「イッカ」と読むのだろう。昔、永井荷風という作家がいた (明治12年〜昭和34年)。私は永い間その名前を「ニフウ」だと思っていた。何分 にもあの字は荷物の「ニ」だ。いつだったかラジオか何かで「永井カフウ」という のを聞いて、あゝそうか、あれは「発荷峠」の「カ」だもナー、と妙に感心?した ことがあった(稲荷の「リ」だとは思わなかった)。その人の小説もまともに読ん だこともないし、人前で名前を語ることもなかったので、それは私の「中」だけの 問題で、恥をさらさずに済んだが。

 その「カ」で思い出したが、私が小さい頃伯母(幸子の母)が何のどういうとき であったか思い出せないが、「せんがひら」がどうかといったのをおぼえている。 話しの後先は全然忘れてしまい、たゞ「せんがひら」という言葉だけが頭に残って いた。あるときふっと思った。あれはなんだったんだろうと、場所もよくわからな いが、たぶん「せん」とかいう人が転び落ちたとか、大ケガした所なので、そこを 「せんがひら(ヒラとは山の斜面などを私達はそういった)」というようになった のか、などと勝手に思ったりしているうちに、またいつとはなく忘れていた。

 今こうして「せんがひら」という言葉を思い出して、さて何にかの本で、鉱山で 「千荷祝」というのをやった、という記事があったように思って、もしかして尾去 沢ではなかったか、と思って麓さんの鉱山史をひっくり返してみたがない。どこか でみたと思って、念のためと同じ麓さんの佐渡講座船の本を見たら、あった。何分 にも40年以上も前に出た本なので、昨日の事も忘れるのが、おぼえているはずがな い、と自慢するわけではないが、それは佐渡鉱山の青盤間歩を明和年間(1764〜 1772)のこととして、次のように書いている(明和年間といえば、その前後にかけ て三沢の鋪も多く開口されている。)。

 「明和元年(1764)11月朔日(ついたち)、青盤の山師及び「かなこ」一同を奉 行所に喚び出し稼方を糾問(きゅうもん − 罪を問いただす)して、山師を入替え 広間役須田両右衛門が日々登山して稼方を督励した。その結果一十日(ひととうか) の鏈代銀二貫目を増したという。明和5年(1768)12月8日には千荷祝を行い、奉行 所から酒樽と饅頭を贈った。これは何時頃から始った慣例であるか不明であるが、 九百九十九荷までは、荷を澄んで読むけれども、千になると濁って読み、これを賀 に通わして祝ったもので、割間歩の極盛期に出鏈万荷を超えたといわれる時代には このことを聞かず、却って鉱況の漸く衰微した時代に、このような縁起を祝ったも のであろう。」

 という次第で、下タ沢の千荷平もこうした千荷祝をした?程鉱石の出たところで、 そうした名前が残ったのではないだろうか。付図1をみれば、千荷平のところに千荷 平比(金偏+比)などというのはみえないが、下の方に千荷立比(金偏+比)とい うのがある。

 こゝで分からなかったのが「鏈代銀二貫目」、たぶん「鏈代、銀二貫目」となる だろうと思ったがわからないのが「鏈」、漢字の辞典を見たら「レン」@鉛の製錬 しないもの。Aくさり。金属の環を連結した鎖。これでは意味が通じない。広辞苑 を見てもピンとこない。そこで麓さんが書いた本だから、その中にあるかもしれな い、と探してみたら、なんのことはない「鉱山用語」という説明の中にちゃんとあ った。
 「鏈(くさり)、鉱石のこと。低品位のものを薄鏈、特に金の含有豊富なものを 筋鏈といい、銀の豊富なものを白銀鏈といった。銅鉱は銅鏈、鉛鉱はぎろん鏈、き ら鏈と称した。鉱石のことを歩ともいった。ノ(ハク)とよぶ鉱山もある。」と。
 尾去沢では鏈とも歩ともいわなかったが、鉱石のことはノ(ハク)といった。

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