下タ沢会によせて(覚書)

再び女人禁制 − 現代の話しいろいろ −

○馬鉱車の話しが出てくる。「馬鉱車、田郡、川上三郎、4〜5台」と書いている。 これは、田郡の坑内で中新田の川上三郎さんが馬鉱車を4〜5台持っていて、馬に引 かせて働いていた、ということだと思う。その馬が病気(骨ナン病?そんな病気が あるだろうか、膝がたゝなくなるとか、これは獣医さんに聞いてみるとして、人間 には骨軟化症とかいうのがあると。)になって使いものにならなくなると、ナンコ かやきにした、とか、この方が楠公かやきより説得力があるような気がする。  この話し、誰にきいたか思い出せない。が中新田の奈良菊弥さんだったような気 がする。私より20くらい年上で、いろいろ面白い話しをきいた。みんな忘れてしま ったが、そのうちのうろおぼえの一つに、昔、猩紅熱という病気があった(今は聞 くこともなくなったが、子供に多い病気で、急に熱が出てくる)、それにかゝった ら、あしげ(葦毛、馬の毛色。白い毛に黒・濃褐色などの差し毛のあるもの)の馬の ウンコをせんじてのませるとなおる。現にその病気にかゝった子があって(下新田 かに)、その手でなおしてやった。という話し、信じるか信じないかは皆さん におまかせするとして、また馬鉱車の話し。

 尾去沢ではその馬鉱車はいつの頃廃止されたかわからないが、小真木では馬鉱車 そのものは閉山になるまで使っていたと思う。普通の鉱車は1トン鉱車といって、四 角い鉄の箱であったが、馬鉱車は木製で鉱石を明けやすいように、片側が開くよう に出来ていて、1トン鉱車の7掛け(7割)といっていた。もちろんその頃は人間が押 していたわけが、馬の場合は、何台ぐらい引張っていたろうか。奈良菊弥さんが 「花輪・尾去沢の民俗」の中で、採掘された鉱石は馬鉱車で(馬で引張って)送鉱場 まで運んだ、といっているが、たぶん大正の終りか昭和のはじめ頃のことだったろ うと思う。きいておけばよかった。

○坑内では明治42年頃から、ガスカンテラを使った。竹灯しは明治28年頃まで、 シラシメカンテラというのもあった。
○さく岩機は、永久沢ではじまった。
○高田さんの入った頃(大正9年入社)さく岩機も発破もやっていた。電車も入って いた、という。

○大正時代は採鉱課長(池田といった)は元山にいた。元山の熊谷坑には、採鉱課 があり、社宅も病院もあった。元山にあったという、こうした採鉱関係の建物につ いては、後で書くこととして、たゞ元山にあったという病院と田郡の病院の関係は どうだったろうか。私達が小学校に入った頃(昭和4年入学)、田郡の坑口の向い坂 を少し上ると寺岡さんの店があり、その後ろの方に田郡の病院といって、クズ屋根 の建物があり、長崎さんという医者さんがいたような、時々でかけて来ていたよう な気がする。その家には後で秋本清さんが入っていたと思う。

○昭和22〜3年頃より坑内沈殿があった。
○笹小屋の沈殿は、明治時代よりあった。
○獅子沢ダムは、大正5年にできた。
○女の人は、昭和8年頃より坑内で働くことを禁止された。

 さて私の女人禁制昭和10年説は、あてにならないとして、沢出さん(であったと 思う)の昭和8年説は正しいかもしれない。国には国の規則があり、鉱山はそれに基 いた独自の規則を作っていたし、沢出さんは私よりはるかに先輩で、労働課でもあ ったので、その記憶は正しいと思う。たゞ次のような記録もある。
 石川忠雄さん(私より5ツくらい年上)が先に書いた「花輪・尾去沢の民俗」の中 で、「「昭和11年頃は女の人が坑内で10人位働いていた。仕事は切羽のズリ取りや ズリならしの仕事をしていた。また、雑役や係員の昼食の弁当運びなどもした。昭 和12年の頃から、女は坑内で働かなくなった。」

 それはそれとして、私達が鉱山に働いた昭和13年頃、男の子?でも、18にならな ければ鉱山に働けないといわれた(事務系は別として、といっても高等科を終って 事務所に働きに行っても、せいぜい雑役か小使だった)。18といっても満であった か数えであったか、忘れてしまったが。

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