下タ沢会によせて(覚書)

四本柱の内は女人禁制 − 女掘子のはじまり −

 こうして坑内作業(詳細な作業方法は省略)をしたわけすが、それは男の仕事で、 女の人は坑内に入れなかったようですが、それが初めて女の人が坑内に入れたのは、 下タ沢がはじまりのようである。
 麓さんの鉱山史によれば、
 
 「鉱山では婦人を坑口より奥へ入れることを禁忌としたと伝へられるが、尾去沢 では掘子の一部に婦人を雇入れ、坑内に使用した。川口家文書のうちに「女ほりこ 初りは勢沢大剪廊下留方大揉込、研出難渋にてほりこに可参者無之に付、女ほりこ 背負為出候処、手合相届、其節より段々内鋪共に入加置候。已前四本柱の内え女不 入法なり」とあり、また文政10年(1827、明治になる40年程前)奈良宮司が尾去沢 銅山山方役見習のとき、坑夫の妻女が坑内で落石のため圧死した後、亡霊が出ると はやして入坑を恐れたのを説得したことが伝へられているし、鉱山稼行の様を描い た屏風絵(筆者並に年代不明、現在マインランドの鉱山歴史資料館に展示されてい る)の一部にも、坑内で働く女掘子の様を写している。そこで女掘子を初めて使っ たという勢沢大剪鋪の大揉込というのを検べてみると、この鋪は元山沢にあって、 安永三年(1774)の開口である。年代は審かでないが二百間(約364M)程切り進ん だところで、付近の沢水が抜け出て非常に難渋した。このとき山先青山金右衛門が、 留大工中の腕利きとして名のある元山の清助と赤沢の金八に命じ、自ら指揮して留 を完成したと伝へられ、勢沢の大揉込といって、当時人々の噂に上った、と青山家 文書に記されている。青山家は五代(宝永(1704〜1711)の頃)から金右衛門を称 しているが、このときの金右衛門は八代目金右衛門栄承であって、奈良宮司の実父 であり、天明四年(1784)七月山先を継ぎ、文政10年(1827)に死没しているから、 勢沢大揉込は寛政(1789〜1809)頃の出来事ではないかと推測される(明治になる 8〜90年前)。女掘子のことは、他の記録には見出すことは出来ないので、その人数 等も詳かでない。恐らく一部に限られた少人数であったと思われる。」

 ということで、勢沢大剪坑は元山沢にあったと書いているが、下タ沢は元山と一 体(同じ沢続き)であったと考えれば、それはそれでいゝとして、山先青山金右衛 門が勢沢の大揉込(おゝもみこみ。手掘坑夫が鉱石なと掘るときに、タガネを左手 で握って岩盤に当て、右手のハンマーでタガネの頭をバーンと打った瞬間、左手の 中でタガネをくるっとまわして掘って行く、それを私達は穴をもむ、といった)の とき、どこから女掘子を連れてきたかを考えてみると、いくら青山家が田郡にあっ たからといっても、わざわざ田郡からは連れて行かないだろう、やはり地許の人を 使ったと考える方が妥当だと思われるので、下タ沢の女の人達が禁忌を破って(破 らされて)女掘子の第一号になったんではないかと思われる(私の勝手な想像だ が。)。

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