下タ沢会によせて(覚書)

再び鉱山のこと − 三沢と鉱山の範囲 −

 さてまた話しは鉱山にもどってゆくが、下タ沢と関係の深い元山を中心としなが ら、田郡、赤沢のことなども見てみようと思う。

 尾去沢鉱山の発見は先にも書いたように、五十枚金山は慶長4年(1599)、西道金 山は慶長7年(1602)といわれ、異説もあるようだが、おゝよそその頃と考えて間違 いないものと思われる。そこには金山奉行がおかれて経営されていたわけですが、 金山としての尾去沢は次第に衰退していき、銅山として再生していくのが、1600年 代の半ば過ぎからであり、それから約100年請負稼行時代が続き、麓さんの鉱山史 (以下「尾去沢・白根鉱山史」は「鉱山史」と省略して呼ぶことにする)によれば、

 「享保年間(1716〜1736)南部八十治、宝暦(175〜1764)末期の森田屋六右衛門 と相次いで請負者の放漫な経営によって、御用銅の供出に支障を招くに至ったので、 明和2年(1765)11月、南部藩は意を決して藩直営をもって稼行することとし、この 経営形態は明治維新を迎えるまで約100年間持続された。」

 こうしたことを踏まえて、鉱山史の中から三沢の状況をみてゆくと、
 「尾去沢の主要採掘坑は田郡、元山、赤沢の三区に分布し、通例これを総称して 三沢といい、寛政(1789〜1809)初期において知られた間歩数80、そのうち稼行中 のもの33ケ所といわれる。」これらのうち「開坑時期を明らかにしているものにつ いて見ると、田郡は明和(1764〜)以前のものが大部分であるのに対し、元山は明 和以前と以後とが相半ばし、赤沢は明和以後開発のものが3分の2を占めている。こ れのみで判断することはできないが、大体において田郡は開発が早く、元山は全期 を通じて開発が試みられたのに対し、赤沢は主として明和以降に開発されたとして 差支えあるまい。」

 さて、こうした三沢を中心に稼行されていた、いわゆる尾去沢銅山の規模という か範囲はどうだったろうか。鉱山史には次のように書いている。

 「銅山の広袤は東西1里20丁、南北35丁、周囲3里23丁(42丁にて1里の積り)とい われ、東は米代川稲村渡場より西は三ツ矢沢迄、南は水晶森より北は十文字長根迄 を境とした地域であった。このうちには花輪代官所支配の尾去村西道口、蟹沢、三 ツ矢沢の諸部落が銅山附として含まれていた。」という。

 ※広袤(こうぼう):土地の広さ、面積(広は東西、袤は南北)  なお私達は1里は36丁と習った。1丁を109Mとすると、×36丁で、1里は3924M≒4K。 1丁の長さは同じとすると ×42丁で 1里は4578Mということになる。

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