下タ沢会によせて(覚書)

藩営時代の尾去沢鉱山の組織

 ともあれ尾去沢鉱山も請負稼行時代を経て、明和2年(1765)11月以降、明治維新 まで、藩の直営時代に入っていくが、その藩営時代の鉱山経営組織はどのようにな っていたろうか。
 麓さんの「尾去沢・白根鉱山史」によると、
 
 「盛岡藩庁には銅山方が設けられ、勘定奉行(或いは勘定頭)のうち1人が銅山懸 りとして、これを統率した。銅山方には数人の銅山吟味役が任ぜられ、それぞれ江 戸詰、大阪詰、国許或いは山許詰として配置された。吟味役の下僚に銅山取次役が あり物書役を兼務した。山許には銅山方役人が両三人ずつ交替で詰合い、支配人以 下を監督し、その直属下僚として鋪内改役を伴ったこともあった。銅山では藩庁役 人を詰合いとよんでいる。
 山許の機構としては、総支配人に当るものを廻銅支配人と称し二人を任じた。時 に山先の故参の者を兼帯せしめて、三人としたこともあった。廻銅支配人という名 称ではあるが、長崎廻銅に限った訳ではなく、山許稼行の総元締の謂であって、 「御銅山盛衰の枢機に相拘り候勤向」で「何れの役所にても御仕法相弛候は御支配 人の不行届」とせられた。
 これに次ぐものは山先であった。元来山先というのは、その鉱山を初めて見立て た山師に与えられた呼称であって、山師の一格上位とせられた。白根における青山 家の如きである。尾去沢の山先は、青山、沢出、川口、奈良、岩尾の五家であって、 それぞれ古い由緒をもち、世襲であった。青山は宝暦年間(1751〜1764)に白根よ り尾去沢に移り、岩尾もまた白根から移ったものである。山先の勤向は「御銅山の 盛衰、御用銅の調不調」に拘わるとせられ、山方のみならず、白(金偏+白)の調 製、床屋の吹方をも監督する、いわば技師長ともいうべき職分であった。そのほか 「御山内一統むつましく為相稼、訴訟ケ間敷事等無之様兼て教諭を加」うべきこと も命ぜられ、山内の公事、公安のことをも担当した。また諸役所の金米出入等にも 心を用い、「御不益の様相見得候か、又下々気請にも相拘哉と存付候事は詰合之早 速可申出」という監査、目付役のような権限も与えられた。それだから「御支配人 御山先は同役同様の心得を以、諸事熟談、内外一致の上取計候得ば御用向無滞一和 にいたり候儀、若両役不和に候ては自然と下々えも押移り、遂には御山内の不和と 相成、御盛山の害是より甚敷は無之候」とされ、支配人同様の枢要の職であった。 藩営後期にはこの両役の者は藩の給人という資格を与えられている。」

 私達は山師とか山先とかいう言葉だけ聞きかじって、何んとなくわかったような 気がしていたが、こうしてみる鉱山を経営するための要めとして、非常に重要な役 目を担っていたことがわかる。こうした経営の実態を組織図にしてみると(尾去沢・ 白根鉱山史より)、次のようになるが、余白の関係で次頁とするが、同書によって それぞれの役方(組織図にある)についての説明を書いていくことにする。

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