下タ沢会によせて(覚書)

史実にあらわれた尾去沢銅山

 さて、話しは松浦武四郎や南部の最後の殿様が来た頃の尾去沢の状況から、いつ の間にか尾去の別当さんの話しになってしまったが、先に書いたように、尾去沢鉱 山発見の和銅元年(708)説は伝説としても、史実にあらわれた尾去沢の五十枚や 西道金山の発見されたのは、慶長4年(1599)〜7年(1602)といわれており、今か らおよそ400年くらい前のことである。その金山が次第に衰えて銅山に移っていき、 いわゆる尾去沢の三沢といわれた田郡、元山、赤沢の発見されたのは、麓さんの 「尾去沢・白根(小真木のこと)鉱山史」によれば、
 「尾去沢銅山の始まりは通例寛文6年(1666、335年前)とされている。この地域 には嘗て西道金山が栄えたのであったが、寛文6年に至り山師長尾重左エ門が西道金 山の西南約1K、大盛山を隔てた田郡沢に銅山を発見したのが、その端緒であるある とされている。重左エ門はつづいて、古くは横合いと呼ばれていた元山沢にも銅鉱 を発見したという。それよりやゝ後れて東南、赤沢にも古鋪から銅鉱を発見したと いわれ、この田郡、元山、赤沢は後に尾去沢の三沢として主要な稼行区域をなすの である。
しかし一説に赤沢の銅鉱発見は享保(1716〜1736)末或は元文(1736〜1741)初の 頃専助、藤助両人が見たてたものともいわれている。川口家文書「尾去沢銅山初よ り鋪口年数の事」を検して年代の古いものを挙げると、田郡沢鋪口では又右衛門鋪 が寛文8年(1668)の開口、横合においては本鋪の開口が寛文6年(1666)、赤沢で は弐番鋪が元文3年(1738)とある」といっている。

 いろいろ説があると思うが、こゝらあたりが銅山としての尾去沢の初りであると 思われる。

 また同書によれば、長坂、崎山について次のような記述がある。
 「元禄8年(1695)田郡沢の南に長坂金山が稼行され、数年栄えて銅山に移行し た。翌9年には崎山と銅山が稼行された。崎山は西道金山に近く、その西方に当 る。」と。

 長坂金山跡には2〜3年前、市街地の柳舘計一さんに郷土史の勉強ということで (公民館行事)連れて行ってもらったことがあったが、屋敷跡や石垣、水路、割れ た金鉱臼などがあった。崎山銅山跡はマインランドから右の方へ行って、県道十二 所花輪大湯線を三ツ矢沢方向に少し行くと、崎の沼があるので、そのあたりといえ ばおゝよその場所の見当はつくと思う。

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