下タ沢会によせて(覚書)

五十枚と尾去沢という地名のこと

 さて、伝説の時代は別として、五十枚や西道金山の発見されたのは慶長4年から7 年(1599〜1602)と書いたが、尾去沢で一番私達に親しみ深くなじみ深いのは、大 森親山は別として、五十枚である。それは、尾去沢を代表する山のような感がある が、現在私達が五十枚と称して登っている山は、国土地理院の地形図によると、 「花輪峠」となっており、金を産出して栄えた五十枚は、若干ずれるようである (付図1参照)。
 ところで、何んで五十枚といったかになると、私達もわかっているような、わか らないような、あやふや漠然としているので、一度確めてみたいと思っていたが、 鹿角市史(第2巻上)によると次のように書いている。少し長くなるが抜き出して みる。

 「「食貨志」に「同(慶長)四年尾去沢村五十枚金山出る。此山金を産する事又 夥し、一月(別書に一日とも)五拾枚の運上にて堀る。依て五十枚金山度云」とあ る。前掲の「開立年限附」では、慶長四年見立としながらも、同十二年御礼金五十 枚差上げたので、以来五拾枚と唱えたと、やゝニュアンスを異にしている。川口文 書「三国金銀之根元并に金掘由来之事」には、五拾枚金山慶長十二年末見立と記 している。その発見年代に多少の差はあるものの、慶長に入って白根を初めとし周 辺に次々と金山が発見された、その一環である。なお「食貨志」に尾去沢村とある のは、沢々の鉱山地区に対する後年の通称で、厳密にいえば近世を通じて南部領内 村付に尾去沢村は存在していない。
 五十枚金山の稼行に関わる文書は殆ど伝っておらず、ただ五十枚という地名とそ の由来のみが語られているに過ぎない。現在慶長から元和、寛永(1596〜1644)に 至る記録、特に藩庁文書もこの時期を欠いているので、この五十枚金山のごとく、 初期に盛山をみた分については、殆ど知ることが出来ない。
 五十枚金山の位置は、西道金山から湧上りの南側を登りつめ、花輪峠から山頂部 を南へ移動して、石畳の手前、元山沢のほぼ真上に当る地点である。御銅山惣絵図 をみると、五十枚の北東側に七十枚の地名がみえる。沢出家由緒書に「慶長十一年 五十枚見立、一ケ月五十枚ツツ御礼金奉行え差上け候、七十枚同断ニて一ケ月七十 枚ツツ御礼金差上げ候」とあるのは、この七十枚であろうか。」

 ということで、五十枚のことはわかったとして、さて尾去沢の地名、いつどこで 出てくるか、となれば、107頁下から5行目(本稿では、前頁「史実にあらわれた尾 去沢銅山」の前半)の「尾去沢銅山の始まりは……」の記事に続いて次のように書 いている。
 「しかるに「鹿角郡諸鉱山記」「南部領金山稼候書抜」等は、尾去沢銅山の見立 初りは延宝三年(1675)山師長岡十右衛門によるところとしている。南部藩の公的 記録に銅山開発のことを見出すことが出来ないので、遽かに(にわかに)この二説 (前掲の寛文6年(1666)説と)の当否を定めることは出来ないが、「南部藩雑書」 のうち、さきに触れた銅他領出手形の控に掲げられる尾去沢産銅延宝六年(1678) をもって始り銅山師は清兵衛とある。翌七年五月には山師善兵衛、重右衛門の吹出 した銅九五二九貫(1貫を3.75Kとして計算すると約35t734K)と記している。山名は いずれも西道尾去沢とある」以下略、そして、
 貞享四年(1687)山師の熊谷治兵衛に与た証文の主要部分として、次のように書 いている。
 「一、鹿角郡西道之内尾去沢田郡山二ケ所之銅山、先達河内屋留兵衛其方両人に て山仕来候処、去年留兵衛於江戸山階上候時、右二ケ所の銅山并鹿沢赤沢共に四ケ 所、今度其方望候付卯ノ正月より子ノ極月まで、十ケ年之内無掫遣候。年紀之内銅 役は拾歩壱、床役金は壱ケ年壱丁に付弐拾両宛、応床数可相出と訴訟申上候に付遣 候事。
 これによって、尾去沢銅山といっても、さきの河内屋留兵衛との共同稼行の場合 二ケ山の稼行であったが、この度治兵衛単独の稼行には四ケ山を統合して稼行され るに至ったことがわかる。当時西道という地名が広い地域を指し、その中の四ケ山 といっている。四ケ山は尾去沢、田郡、鹿沢、赤沢とあるが、田郡以下は現在もそ の地名は明かであるけれども、尾去沢とは何処を指したものか、現在は尾去沢が広 い地域を指す名となっているが、この場合は開発の過程などから察して、横合と呼 ばれた元山をいったものではあるまいか。」といっている。
 となれば、尾去沢という名の発祥の地は、元山ということになる。

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