となれば慈顕院とは何者ぞ、ということになるが、鹿角市史第二巻下によると、 「慈顕院は初め三光院と称したが、近世において慈顕院の代に頭襟頭として活躍 している。屋敷内に古墳三光塚が現在している。 慈顕院の由緒は、子孫である海沼寿世家文書中の安永8年(1779)頃書かれた記録 (この1年前の安永7年に第24代が「獅子大権現御伝記」を書いている)と、天明4年 (1784)の「祈念千人講当時道場元三大師堂建立記」に記されている。この二つを 総合すると、往古慈顕院は鹿角郡の尾去村蟹沢の海沼舘に居住していたが、羽黒山 に登り山伏となり三光院と改名、石鳥谷竹鼻に住居を移し、熊野堂と獅子森権現堂 の別当となる。文永二年(1265)尾去村に移り、連綿として堂社に奉仕して来たと いう(……)。 またこの海沼家には、銘は記されていないが、中世の作と見られる獅子頭や神楽 面七面が所蔵されている。秋田県指定の無形民俗文化財の大森親山獅子大権現舞に 用いられる獅子頭(安永七年(1778)作)や不動明王像(安永九年(1780)作)な ども保存されている。」 という次第だが、山伏ともなれば本山(羽黒山など)はもとより、諸々の霊山を 馳けめぐって修業(修行?)を積んだと思うので、その見聞も広く、相当な知識を 持っていたと思われるので、慈顕院の24代目が天平21年に陸奥国小田郡で金が発見 され朝廷に献上された(古い文献に残っているという)話しも知っていたろうと思 われるので、その話にヒントを得て、その1年前に尾去の清吉が長坂に金を発見し た、という話しを書き上げて、尾去沢鉱山に箔をつけた、と思うのは少しうがちす ぎだろうか。やはり伝説は伝説として、あれこれ詮索しないで語り継いで、ふる里 の夢をふくらましてゆく、そのことが大事なことだろうと思う。 ※頭襟頭(ときんがしら):末派山伏のまとめ役。頭襟とは広辞苑によれば、 「修験者のかぶる小さいずきん。山中遍歴の際、瘴気(しょうき)に障れるのを防 ぐためという。黒色の布の造りで、十二因縁にかたどって十二の襞(ひだ)を設け、 紐で頤(おとがい)に結びとめる(山伏さんの頭の上にのっている黒いワッパのよ うなかむりもの)。 ※瘴気:熱病を起すと思われていた山や川の毒気。 ※十二因縁:衆生(衆生、人々のこと)の苦の原因を順に十二段階に立てて説明 したもの、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二項。後に前世から 現世、現世から来世の三世にわたる輪廻(りんね)の因果関係を説くものと解され るようになった。 私達が尾去の別当さんといっていたのは、羽黒派(鹿角の山伏はみな羽黒派のよ うだ)に属した頭襟頭をつとめた家だった。終戦後は神社は皆宗教法人になって、 全国的には東京の神社本庁に統括され、その下に各県の神社庁があり、神社の格式 も昔の官幣大社とか村社とかいった区別もなくなり、外の県は知らないが秋田県は 特級、1級から5級までとなり、尾去沢の山神社(両社山神社のこと)は尾去の八幡 神社と共に2級となっている。この外に神社庁に登録されていない各村落にある神社 は無格社となっている。 鹿角市史(2巻上)によれば、山伏の流れもいろいろあったようだが、延享二年 (1745)頃には、頭襟頭として慈顕院の外に柴内の南光院(大蔵院)、毛馬内の不 動院があったという。そうした山伏の話しは別として、同市史は、 「鹿角地方においては、今日でも神社の祭事にたずさわる者を「別当さん」と呼 ぶ。近世において、僧侶であれ神職であれ、また修験者(しゅげんしゃ)であって も、神社と関りのある者を別当と称してきた名残である。」と。 私達は子供の頃から神官さんとか神主さんとはいわずに、別当さん別当さんとい ってきたのもこれで納得。 ちなみに現在いわゆる神職(といっている)には、その神社の大きさなどにもよ り、何人いるかは違うと思うが、その階級には、宮司、権宮司(ごんぐうじ)、禰 宜(ねぎ)、権禰宜などがあり、伊勢神宮ともなると大宮司、小宮司とか、更に複 雑になるようだ。 |