下タ沢会によせて(覚書)

ふる里の鉱山(やま)、ふる里の町

 「千何百年か前のみちのくは、我々が今考えるよりは、はるかに京への道がひら けていたのではないだろうか、伝説とはいえ、仁徳天王の頃(314)上毛野(かみつ けぬの)君田道がエゾ征伐に下り錦木石野(鹿角市十和田錦木)付近で戦死、猿賀 野神社は田道将軍をまつった神社といわれ、また斉明天皇の頃(658)には阿部比羅 夫のエゾ征伐、光仁天皇の頃(780)には坂上田村麻呂のエゾ征伐がはじまり、806 年(大同元年)には田村麻呂が戦勝を祈願して毛馬内月山神社を建立、また小豆沢 大日堂や猿賀神社を再建したと伝えられている。してみれば我々の方は常に征服さ れる側であり、その記録もないわけだが、それだけ京に拮抗し得る勢力があり、そ れなりの文化も栄え交通もひらけていたのだはないか、私は歴史家でもないので勝 手なことをいうわけだが、陸奥の国の国王が、小田郡などともったいをつけた地名 をいって、実はこの尾去沢の金を手に入れて、献上したのではないか、今も尾去沢 の田郡には小田郡というところがある。文字で記録することをしなかった私達の遠 い先祖は、奈良の大仏様はこゝの金がなければできなかったんだ、と語り合い、言 い伝へてきたのではないか、となれば無責任な放言であり、そんなことは小説家の 領域のこととなるかもしれないが、永い歴史の鉱山に誇りをもって生きてきた私達 にとって、そう思うこともまた楽しからずや、である。」
 また天平19年(747)行基の僧団が金銅を求めて諸国に散り当地にも来た、という 伝説もあることにふれて、こんなことも書いていた。

 「行基に対して聖武天皇が大仏建立の勧進の仕事をおゝせつけになったのが743年 (天平15年)であり、76才ということであれば、747年(天平19年)に尾去沢に来た ということは、年齢的にみて無理としても、その弟子達が来たということは考えら れる。もともと行基は諸国をまわり、今でいう社会事業をしており、伝説では728年 (神亀5年)に阿弥陀三尊を刻んで小豆沢、長牛、独古にまつり、また柴平不動尊を 刻んだとあり、年齢的には60才頃となるから、来たとしても無理ではないと思われ る」
と。

 ところで、子供の頃(小学校に入る前後の頃か)父親から聞いた話し、何にが何 んだかさっぱりわからなくなったが、記憶に残っているのは、小豆沢の大日さん、 別所(下新田の隣村)の大日さん、北秋田の西舘かの独古の大日さん(あるかない か行ったこともないので、知らないが)は、一本の木(桂?)で作ったので、兄弟 だという話し、今八幡平の方でもこんな話しを知っている人はいないかも知れない。

 さてこゝで注目したいのは、という程でもないが、尾去の清吉が長坂金山を発見 したのが「天平20年」であるということである。陸奥の国小田郡で金が発見された というのは「天平21年」でその1年後である。2月に金を献上して、それをよろこん だ時の天皇が年号「天平勝宝」とかえたのが7月といわれている。

 長坂金山はいつの頃からか知らないが、長坂千軒、崎千軒と並び称されて栄えた ところといわれ、三ツ矢沢の上新田の上み、山に向って右側に行けば大葛に通じる 道になるが、その反対永久沢を谷に沿ってさかのぼってゆくと、約1時間程度で長 坂金山の跡に出る。赤沢の裏側というか山の上の方でつながっているのかもしれな い。

 この尾去の清吉が長坂で金を発見し、国主に献じ、更にそれが天子に献じられた という獅子大権現御伝記のある話しが、私達が何んにも知らず、たゞ尾去沢の金が 奈良の大仏さんを塗るのに使われたという言い伝えの出どことなったのではないだ ろうか。
 それにしても尾去の清吉が金を発見したという720年と、宮城県の小田郡で発見 されたという721年の1年違いが気にかかる。

 麓さんの「尾去沢・白根鉱山史」によると、「これらの説話は何時の時代から語り 伝えられたものか、勿論明かにすることは出来ないが、金銀銅などの発見を一つの 神秘として、ある魔力に結びつけようとしたものであろう。かなり後世に入って獅 子権現の修験者慈顕院、三光院などの作為とも考えられる」といっている。

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