下タ沢会によせて(覚書)

頭の整理 − 下タ沢をさがす前に −

 さて、こうしたことを踏まえながら、「尾去沢・白根鉱山史」や「鹿角市史」など の中から下タ沢をさがしていく、として、先づ、頭の中を整理することとし、

 尾去沢鉱山の発見は、和銅元年(708)と伝えられているが、確たる資料もなく、 いわば伝説の時代。我が国で初めて金が発見されたのは、天平21年(748)陸奥国小 田郡(おだのこおり)といわれ、その奉った金によって奈良の大仏が塗られたとい われている。この小田郡は現在の宮城県遠田(とおた)郡涌谷町黄金迫(はざま) の黄金山神社附近といわれている、と。尾去沢の田郡にも小田郡(こたこおり)と いわれている所があり(場所は私達が田郡の坑口といっていた所の上の方だと聞い たが、その頃少し崖崩れのようになっていて地肌も出ていたが、今は木も大きくな って分からないと思う)、奈良の大仏さんを塗ったのは、この尾去沢の小田郡から 出た金だといい伝えられているが、いゝ伝えだけで何にも文献などは残っていない ようだ。もしかしたら尾去の清吉が天平二十年(748)に金を発見したという話が底 にあるのかもしれない。
 それはそれとして、私達が62歳の厄払いの同級会をやったとき、私達の同級生の 多くも昭和42年の大合理化以来、他場所に転換して行った。あれから15〜6年にな り、皆んな家も建て、孫もできて、その土地に根を下ろして暮らしている。それは いゝとして孫にでも、尾去沢とは尾去沢鉱山とはどんなところだ、と聞かれても返 事に困るだろうと思って、年表式ではあったけれども「ふる里の鉱山(やま)・ふる 里の町」、「母校のあゆみ」というものをメモ書き程度ではあったが書いたが、今 尾去沢の話しに入ってゆく話のきっかけに。

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