下タ沢会によせて(覚書)

鹿角日誌と扈従日記 − 人家の違いは −

 さてさてお疲れさまというところ、何分にも字ばかり続いており、しかも文を区 切る「、」も「。」もなく、また「゛」(濁点)なしに昔のかな使いときており、 更に字をひっくりかえって読むところ、あて字ありで、今の私達の頭の中はこんが らかるばかり……

 ということで、幕末の頃の二ツの記録から、関係の深いと思うところを抜き出し て書いてみたが、こゝで二ツに書かれている人家の数をくら比べてみると、わずか 11年くらいの間にその開きが多きすぎる、その間どれ程大きな鉱山(やま)の変 動が、あるいは人家のとらえ方というか、部落の範囲のとらえ方に違いがあったの か分からないが、とにかくこの二ツをくらべてみると、

「鹿角日誌」 瓜畑二軒、笹小屋三十三軒ばかり
「扈従日記」 笹小屋六十一軒、鹿沢六十一軒
 笹小屋、鹿沢は同じ軒数だが、先にもいったが偶然の一致だろうか、或は瓜畑 (記述がない)、笹小屋、鹿沢は同じ沢続きなので三ツを合せた数字なのだろうか。

 また田郡については鹿角日誌は二十軒ばかり、に対し扈従日記は七十七軒と4倍近 くになっている。仮りに田郡の二十軒に中沢(田郡)の十六軒を加えても三六軒で 2倍強。
 元山の十二三軒に対して扈従日記の方は九十五軒強といっているが、元山に勢沢 の六七軒をく加えても二十軒くらい、゜十年一昔とはいっても、この10年くらいの 間に元山・田郡がそんなに急激に隆盛に向ったろうか。
 また西道金山に働く人は12〜3人に対して5〜6人になっているが、西道金山は衰退 の時期だと思うので、それはあり得ると思う。赤沢は7〜8軒といっているが、扈従 日記にはないので行かなかったと思う。鹿沢については、鹿角日誌は講所内や作業 の事はくわしく書いているが、人家のことにはふれていない。

 ともあれ鉱山の盛衰は激しいものだと思う。尾去沢鉱山も最初の合理化縮少(昭 和42年)から閉山(昭和53年)までの間に、従業員の数が10分の1くらいに減ってい る。元山・田郡の場合は、この逆なわけだが……

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