下タ沢会によせて(覚書)

からめ節 − 元山流と赤沢流? − さて続いて −

一、尾去沢御役処より此金場まて都合二十五丁程(約2745M)
 一、尾去沢にて床屋働之者弐百疋(一疋は25文とすると5,000文)爰に金場江百疋 下されし由然ニ此金場ニて数人ゆひ偶上様より頂きとて唯遣捨てハ勿体なしとて小 サき堂を造り其金を祭りしよし也(この小堂、どこにあってどうなったかわからな い、それにしても山かげの人達は正直純朴だったものと思う)
 一、此度上様御通行ニ付御目通ニて働とて其日の粧は元より之事衣服用意セし者 にも在不及者は借用等致候よし奉行之計ひニて容顔余リ見苦からぬ者を択み中ニは 金場へ出候事なきものも容顔のよき者択しよし也何者成カ此度出るとて聊衣類等用 意セしカ容顔不宜とて除れ出るよふなしと悔ける者有といふ此二ケ条ハ後に聞しま ま記之(いつの世でも美人は得か)
一、爰相済是より御帰り別道より御上リ懸路傍右ニ鋪口在之是ハ大切鋪とて金堀の 入べき鋪ニは無之地之宜を計リ鋪内之水を爰に集めて流し落す口也所々に有之よし 此先当所大本番へは其設けあれとも御立寄無之けふの天気ニて大分暖気之上甚敷上 坂なれは御供方も不続日蔭を見立て暫之内御床机ニて御供之続くを待せらる是より 段々上リ元山へ御着ニ相成
 一、御小休 元山大本番
当沢人家九十五軒程右役前へ出役
          御銅山方 帷子繁治
          廻銅御支配人 石井嘉右衛門

一、此所へ暫く御休息被為遊御銅山方より山色品々六方石等献上シ御供方我等へも 内々ニて重詰肴酒出る直々御歩ニて御発駕同所山神宮江御参詣
一、山神宮正面大石坂在之余程高し御勧請は何頃成か聞き忘れたり(この山神宮は 大正14年の大火により焼失した元山の山神社とすれば、その創建は推測の域を出な いが、正徳六年(1716)当時の領主南部公により再興されたといわれている。)寛 政五年正一位之御神位也といふ別当黒沢八太郎出居披露し御参詣相済社之脇より直 々御上リ坂道余程逝、山壱ツ越て
 大本番より九丁程(約981M)
 一、御立場 帯刀屋鋪前
此所御発駕同所下タより西土(道か)金山へ被為入直々働方御覧也
一、西土金山是は銅山とは大ニ事替れり長屋之内女共五六人ニ而働けり誠ニ手細キ 業也先挽臼を多角仕懸夫へ金之交りし土を入れ水を和して挽なり其挽たる土の流る 所ニ板へ細目に割付しはしりを置其下タに溜桶有之上ニは水桶を仕懸不絶程よく細 く流るるなり其はしりへ自然流出る泥を水桶之水ニ而流セば其土ハ流れ落ち砂金ハ 細目ニ溜る也壱人して臼壱ツツツ引請て働けり御覧之節は其中に年老たる功者と見 ゆる婦人其網目板を脱し四角凹形成板之上ニて其金を煤水を流しかけ又清水ニてゆ りすゝき幾篇も如此して後男子受取て兎之足を以て夫を寄集メ、余之品ハ金付て不 宜此品ニて費なしト云、茶碗ニ入火鉢ニ入て吹立けれは金溶解して少塊ト成いわゆ る山吹金成べし七八分在之よし直々夫を御取上ニ相成後に聞は夫は一人之一日役之 目形成へしといひり当処之金場並鋪口等ハ御覧無之我等ハ見しに仕事ハ田郡ニ同じ 長屋も狭く両三人ニ而働けり此所御発駕元之山道へ御戻り相成ル
 西土よりハ八丁計(約872M)
一、十文字爰は花輪通と御銅山領之堺也出役左之通
  梨子木峠ニ而披露済之人ゆひ
  此所ニ而者不奏也 花輪御給人
             佐々木和左エ門
   御境役     同 吉田仁右衛門
           同 杉江快右衛門
  十文字より三十丁(約3270M)
 一、御立場 乳母懐(うばがふところ)と申所
一、此所より左之方大沢一ツ越して山々絶頂ニ秋田御堺刈分見ゆる尤昼過より風立 て別而此辺は山之上吹風勢強し此先尼切沢ト云所より秋田大舘領沢尻村並葛原村ト 申所遥に左へ見ゆる段々下リ坂ニて米代川端に出る

 こうして、はっかい沢(こゝで御先立が毛馬内御給人に代り)を通って松山に出 て毛馬内の方に入って行く。

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