下タ沢会によせて(覚書)

下タ沢から元山へ

 廿七日、滞留、鋪中見物ということで案内してもらって、色々見学しいてる、そ して、
「扨其辺りに去年申年五月中旬より六月にかけて自然銅出し跡とて未だ岩間に少々 其自然の気有を見たり。」として、
 
自然銅、方言トウジ、是は岩間に自然銅生する也、其若き品は粟粒を積かためたる 如く生するや、又年経りたるものは氷柱の如く垂るゝものあり、又此銅には金気多 きよし、余も二ツを貰ひ得て今に所持せり、実に希代の珍也。是にして考るに当山 は銅気余程多き哉に思わるゝことなり。
 
 続いて紫石英や外の鉱石の事など書いて、扨として硅肺のことを書いている。
 
扨爰に一説有、佐州(新潟県佐渡)銀山金山銅山共に稼業の山丁(山に働く若者)、 長命する者なしと世間一統(皆々)に伝ふ、又薩州(鹿児島県)金山、秋田院内、 阿仁、大クショ(大葛か)山竹を用ゆよしにてか、短命の者も有べけれども、長命 の者も有、決て佐州銀山金山其命の山丁の如く短命なりと決ることなし、其命の長 短は其日に用ゆる処の明し物によることかと思わる。佐州にて油火を用ゆること尤 雑費少しとは聞けとも、人名を縮る程のことを如何てか是を制して竹を用ひざるや らん。此考決して相違なかるべしと鋪中思ひと出て、青山氏に聞に先年薩州の金山 を稼候し山丁共来りて、此処に居たるを、其火明の遣方薩州の同じ事也、佐州の金 山は油火を用ゆ、是は定て雑費は少けれども此気を鼻中に息(口偏+息、嗅ぐ)き 込甚毒なるべし、故に佐州を稼もの青く廃病となるよし語られき。何そ此論少も相 違はあるべからずし思わる、因にしるす也。扨鋪中にて燈明の消えし時前後行かた しれす、如何ともするべき様なき時は、胸を手にて打つよし左すれば其響きで、其 近くの者火を用来るよし、鋪中にては声を如何斗の立候とも十五六間より以上は聞 えさるよし聞侍りける。此処にてためしに見たるに左右の穴より燈火をもて来り呉 ける可笑ければしるし置ぬ。又鋪内の禁言数十、然れども忘却したるまゝしるさす。 実に銅山は当時皇国第一と思わる、先其金多きものを其まゝに遣ふこと誰か是を穿 鑿して吹分たざらん、其品秋田阿仁の産に三四等も上品なるべし。
 
廿八日、出立、家僕に我か荷物をもたせ花輪迄と送らし呉ける。則別れに臨みて右 に誌るしたる自然銅、紫水晶、床ズレの三品を呉られ自らも中沢の峠迄送り呉られ、 則此処より後を顧れば、老母、家内の衆も門口に出て、我行を望み見られけるに、 纔両三日の滞在にもかく迄も心を用ひ呉られと主人の事思ひやりて別れけり。
 
 麓さんが「尾去沢・白根鉱山史」の資料編として(「花輪史談会」謄写本より収 録)としてのせているものを書き写した。

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