下タ沢会によせて(覚書)

稲村橋 − 松浦武四郎と菅江真澄 −

 さてこの松浦武四郎は、青山家に行って添書を出して泊ったといっているが、こ の添書なるものは、誰からもらったのだろうか、松浦武四郎は幕府公認の探検家だ と思われるから、花輪の代官所あたりからもらったのかもしれない。この点菅江真 澄は単なる紀行家と思われるから、こうした添書のようなものは持っていなかった ので、御銅山という特殊地域には足を踏み入れることができなかったのかもしれな い。

 松浦武四郎が米代川を渡るとき、橋代が1人10文だと書いているが、稲村橋ができ たのは、天保元年(1830)花輪の御給人吉田新六が私財を投じて作ったといわれて おり、となれば菅江真澄がこの川を渡ったのが文政4年(1821)であるから、まだ橋 ができていないときであり(綱曳き渡るといっている)、松浦武四郎がきたのは嘉 永2年(1849)であるから、橋ができてから19年後ということになり、まだ新しい感 じだったかもしれない。たゞこの橋は、松浦武四郎によると、「板橋を懸たり」 「橋長四十間斗」あるのみなので、その橋の規模などわからないが、花輪の方には 何か資料があるのかもしれない。

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