下タ沢会によせて(覚書)

松浦武四郎の見た尾去沢 − 鹿角日誌から −

 この松浦武四郎が尾去沢に来たのは、鹿角日誌によれば嘉永2年(1849)7月25日 毛馬内を発って花輪に入り「米代川、板橋を懸けたり、川端凡五十間、橋長四十間 斗、此川側秋田領に到る、一人前橋代拾文ツヽ也。越て左の方に「橋番。琴柱、刺 股を立て番人一人住す、則此処にて橋銭を取也。則銅山より出役する傍に柳の大木 有」、ということで、尾去沢に入ってきている。

 木山方。則前に誌したる柵の上に有、一丁半斗の間、垣を結て中に薪を積上たり、 牛に負はせて是より銅山鹿沢へ運送す、其牛の数は百四五十疋も有るよし。年中正 月元日、二日、七月十三日、十六日のみ休み、其外は如何なる風雨の日なりとも少 しも休む事なしと聞けり、則此処を置場と云る也。傍に役所有、鹿沢より出役す。

 そして木山方→銅山川→蟹沢村→瓜畑→笹小屋村→稲荷社→神明社を経て(それ ぞれ情況を書いているが、長くなるので省略する)
鹿沢番所。此処を大門と云、柵を結たり此門凡四丁に三丁も有と云り、又山の懐の 如き所にして、周廻前に図するが如く南は八聖山、鉢巻長根、西は五十坂(五十枚 か?)、元山、西道金山等の衆山にて囲めり。番所に至りて出入の者は皆鑑札を以 て案内し往来す。我は則青山主一郎同道にて行故に其趣を相届け行、又領内の人銅 山見物の為に此処に来る人は皆廿文卅文ツヽも銭を番人に遣して見物するよし。我 等が見物せし折も、秋田辺の者の由なるが、八戸領の者と此処に入見物す、然れ共 領内の者に限るよし、他領の者は皆八戸領の者と云て入れはよろしき由言伝ふ。又 聞に他領遠方の者は百文位も出さゝれば通さゝるよし、近年は甚案内銭高値になり しと云り。惣て当領内の事は銭にて済む事多し。以下略……

 こうして本番、銅山奉行勤番所、鎮守稲荷社、七曲り(鉱山選鉱場の後ろの山の 急斜面に、曲り曲りの道の跡が閉山頃までかすかに残っていた。こう書いている ……)
七曲り、則ち前にしるしたる如く山の腹に細道を附て往来す、凡一丁(約109M)斗 の上りて、中番所、庶人一人勤番す、此辺り兀山(はげやま)にて草木なし、只上 に到りて少々松の木有のみなり。行こと凡五六曲、間六七丁も有るべきと思ふ。上 りて下を見れは、鹿沢の吹所、床屋審に見え実に風景よろしき処なり。上りつめて、 石畳、此処峠也、松の木少々有、又道に石を敷たり、故に此地名有(今も石を敷い た跡が残っている)……略……。→天王山→大本番→観音庵(私達は田郡のお寺と いった)から中沢(お寺から下りてきて田郡の集会書のあったあたりをいうようだ) に出ている。

 中沢、此処人家十六七軒、山の半腹上下どこと云こと無建り。皆家の一方は渓 (たに)に枕(のぞ)み、甚危き建方なり、道傍に休ふに一人の医師関隆達といへ る人来り是より同道致す。扨此処にて話しを聞くと、中沢は山の頂上なれは此頃の 日でりに水至て乏敷、茶の水さえも甚遠き処より汲よし聞り。十五六歩斗左の方に 下りて、用水間歩(まぶ)、此間歩大なるもの也、此口に纔時(ざんじ)立休ひて 居るに、冷風出て肌粟を生す。下ること五六丁にして、山ノ神社、山の尾の高き森 の中に建てり、石階(せっかい)華表(かひょう = 鳥居)有、見事也。祭神大山 祇(おおやまつみ)の尊を祭る、中沢、田郡三郷の氏神也、春秋祭礼有よし。桟道 (さんどう、山のきりたった崖などに棚のように架けた橋)を少々下りて下の方、

田郡、人家二十軒斗、山の端に本番と云るもの有、此処田郡の米、金諸色(しょし き、いろいろの品物)味噌醤油に至る迄渡し場なるよし。
青山庄蔵(明治26年没)方へ行、添書を出し宿す。扨此処まで同道致し来りし関隆 達は此庄蔵の婿なるよし、随分読書も出来候、又青山氏は当田郡一山の長たるもの ゝよし、早々素麺を煮或椎茸、塩カン冬(?)早々豆を漬けて豆腐をこしらへ、実 に甚饗応になりけるぞ奇談なりける。然るに此村も水に甚こまり候よしにて纔斗 (わずかばかり)湯をわかし、其にて行水を遣はせけり。

扨此地次に図する如く北東南直立たる山の間に家居し上下に立連り其さま蜀道(し ょくどう、中国故事による険阻な道路)の図に有る処の如し、又隣家に往来するに も桟道を越て行さま如何にもおもしろし、日影は四ツ(午前10時)過ならて見るこ となりがたし、西の方は一方川裳(すそ)になる故に欠たりとは云ふものゝ群峰重 畳(ちょうじょう)たる中なれば八ツ(夜中の2時)過ると月の形を拝することなり かたく只山の峰々に照る影のみを見る斗也。前に細川有、此水秋田領上新田村(思 い違い?)へ十丁斗にして下り能代川(米代川か)に落ること実に一奇境と云べし、 友人楓江此地の誰咏(詠と同じ)の
 四時日短して夜偏長し
と言しも思ひ合せたり。

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