廿六日、早朝より出立して山々見物せんものと案内を頼み置ける、最早七ツ(午前
四時)頃より、セリ場にて礦石を割る音勁(石偏の勁)々(こうこう)として響音
凄しくいと遠境の思ひをなせり。扨立出て、 セリ場、此処は一山ごとに在、皆鋪中より切出す礦石を割り水にて流し、其宜敷所 を鹿沢へ運送し、又割き処は細かく致して水にて洗、よく製して送るなり。則是皆 牛馬の往来し難き処故に山下の負て行くことなり(こゝがよくわからない、山の下 のセリ場に背負ってゆく、ということか)、是を割て洗ふは老婆の役目也。出て、 大切鋪(おおぎりしき)、此鋪又田郡中の巨大なるもの也。此処水ぬきとなるよし、 是より九折(きゅうせつ、つづらおり)を上ること五六丁にして、中沢村に出、是 より直に越て彼稲荷山の後ろの方、本鋪、上磐間歩、松コマブと三ツ有、是より九 折を下ること甚難所也、一歩過たは千尋の渓に落ちる、辛して下る。 ということで、いよいよ下タ沢(勢沢:きおいざわ)の方に入ってゆく。私は初 め下タ沢はどこにあるのかと、五万分の地形図とか、鹿角市の二万五千分の地形図 などを見てみたが、すみっこの方に片よっていて(地図の作製上そうなるのだろう が)、また小さくて場所的によくわからない、そうしているうちに「尾去沢・白根鉱 山史」に何にか図面があったことを思い出して出してみたら(付図1)此処は何処 と正確なことはわからなくてもおゝよそのことはわかる。こゝらあたりのことだろ うと想像もできるので、この地図(見取り図)を頼りに文書を読んでいけば昔のこ とが少しでもわかってくるのではないか、ということで書きはじめた。この地図が なければ、下タ沢の思い出話しで終っていたと思う。 この図面は、尾去沢・白根(小真木)鉱山史を書いた麓三郎(尾去沢鉱山の副鉱山 長、その後本社重役として人事部長や総務部長などされ昭和27年退社)という人が 、岩手の県庁か図書館から借りてきた古い図面を、鉱山地質課の測量技師であった 村木勝藏さんに書き写させたものである。この本の発行は、昭和36年(1964)です から、その1〜2年前であったと思う。当時私も地質課にいたので、村木さんが書い ているのを見て知っていた。 「拡大写真」 |