下タ沢会によせて(覚書)

下タ沢から元山へ

 それはそれとして、こうした昔の文書を見てゆくと、漢字ばかりならんでいて、 どう読んだらいゝか芯が疲れる、また漢字が続くと、つい熟語として読まなければ ならないと思い、小学校頭は目を白黒させるわけですが、というわけで、私はこう した本はペラペラとめくって見て、ハイおしまい、としていましたが、今回更めて 眺めて見て、一字一字を拾い読みするように、話し言葉にして呼んでいくと、大体 の意味がわかる。時間はかかるが、それでいゝんだと悟りを開いたわけではないが、 一人で合点してこの文を書くことにした。

 本当は今の言葉に直して書けばわかりいゝわけですが、もとよりそうした力もな いので、しどろもどろとつまづきながら呼んでいきたいと思います。ということで いよいよ。

勢沢、此処人家六七軒也、先下りて、新切鋪、立間歩、少し下りて、鶯鋪、下りて 鉛鋪、少し下り勢沢大切等也、何れも此川の西傍に在り、此川二三丁にして田郡川 と合流し上新田村(下新田の誤り?)に落る也。扨此地又田郡沢よりも峡中狭くし て、一軒の家とても平家なく皆山の腹を刳り其間に建、又山より渓に枕みて立等致 し次に図するが如く、其風景又田郡沢に一倍せり。扨上りて。

セリ場、当山内の礦石を此処に持集め淘汰して鹿沢へ送る、五六十歩上りて熊谷鋪 (田郡の観音堂の真下あたりに大きな坑口があって、熊谷鋪といっていたと思う) 十吉間歩、上りて本鋪等也。
則是より岩角にすがり、木の根を攀て九折を上ること五六百歩にして、道少々緩也、 則是道は本番への往来なり、道より少々上の方に、

山神社、大山祇の神当村の氏神也、華表、石燈籠並ひ立てり、扨並みひて少し後ろ の方に少し坂を上り、

愛宕社、小祠也、此辺り皆石峨々たり、少々東によりて、

元山、人家十二三軒、此処の人皆金蔵間歩、ニワトリ間歩を稼く也、元は此村の辺 りに稼処多かりし由、其故此処に人家在る也、今は其鋪は皆稼ものなし。是より右 へ山の端を下れば大本番へ出る也、我は是れより左りの上のへ山の端を行くこと五 六丁にして、山へ上る、此処を

五十枚、といへり。此処嶺上に道在り、是より毛馬内、花輪、北の方米代川秋田領 田郡辺を眺望するに樹木少々に無故に、到りて目に障るもの無てよろし、東へ上り て道の左右に鋪多し、然し当時稼人無処多し。細谷間を行十二三丁斗にして、

西道金山、此処今山頂十二三人相稼金山なり、其金秋田の生よりも甚よろし、又礦 石を見るに甚色よろし。谷筋下りて鹿沢に着す。
鹿沢は大本番に到り候処、関隆達出来り、則我を案内して淘汰場へ行、此処は五ケ 山より持来る礦石を又細かく砕きと水をもてゆり上る也、是則老婆其役也、是より 御床屋又御台所等委敷く見物致し是より山に上る。

八聖山、羽州最上(山形県最上郡)本道寺の八聖山、不動尊を勧請(かんじょう) 致したる也、山上に松五六株有、並に小堂有。南の方へ下りて、

赤沢村、此処人家七八軒、皆山頂のみなり。大本番当山内の支配をするなり。小川 に添て上ること三四丁、此両岸に間歩七八ケ所有、上りてセリ場、是は当山中の礦 石を製する処也。是より谷伝ひに四五丁上りて山合に雑樹少々森陰たり。

獅子堂、鳥居石燈籠を建たり。此処より左右に二筋道有、左りの方へ上れば五六丁 にして、

水晶山、へ到るよし、遥に見るに山嶺に小堂有るよし、此山の西は則田郡村に懸る よし、余は右の方へ行二丁斗にして又左右の道有、左り、

夏山長根、といへるよし、余は右の下道を行こと四五丁、兀山にして鹿沢の上の方 なる道をしばしにて、昨日通りし石畳に出る、是よりは昨日の道故にしるさす、凡 七ツ(午後四時)前の瀬(これがわからない)のことにして帰宿しけり。

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