下タ沢会によせて(覚書)

松浦武四郎のこと

 さて、菅江真澄が尾去沢を通ってから28年後(嘉永2年(1849)、152年前)に松 浦武四郎が来ているが、その書き残した「鹿角日誌」に尾去沢のことをくわしく書 いている。そもそも松浦武四郎とはどんな人だったかと、辞典など見てみると、

 江戸末期の蝦夷地探検家、というのは皆さんご存知のとおりですが、名は弘(ひ ろむ)、号は北海、雅号多気志楼(文政12年(1818)〜明治21年(1888))、伊勢 国一志(いちし)郡須川村(三重県一志郡三雲町)の郷士の四男ということで、16 歳にして故郷を出奔し、全国を遊歴して文人や勤王志士と交った。弘化2年(1845) から安政5年(1858)まで6回にわたって蝦夷地を踏査し、初の蝦夷地誌である「蝦 夷日誌」155巻を著して、幕府に呈上したほか、その摘抄本ともいうべき「蝦夷紀 行」22巻を刊行している。日誌の中では過酷な扱をされているアイヌ民族について 「明日のご開拓より今日のアイヌの命を」と切々に訴えているが、安政大獄の期に 当り取上げられなかった。明治2年(1869)8月開拓判官(局長級)に任じられ、北 海道および国郡名の名付け親としても知られる。明治3年3月、維新政府によるアイ ヌ開放が果されないことを理由に判官を辞任したが、異例にも終身15人扶持(米価 換算150万円位)を給された(朝日新聞、日本歴史人物辞典より)という。先日何に かの本でみたが「カラフト」に「樺太」の字を当てたのも松浦武四郎だと書いてい た。ということは、私達は樺太だけの字をみて「カバフト」というのは間違いとい うことになる。

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