下タ沢会によせて(覚書)

土深井 − 十文字 − 追子坂

堺川ときてさゝやかなる流れを渡れば、陸奥国鹿角ノ郡土深井といふ村に関あり。 本ト飛貝と云ひし処とも云へり、そのよしはこの山渓(やまざわ)を掘れば、うつ せ貝、はまかづら、なにくれの貝ども出る中に溝貝多し、みそ貝の事を此あたりて、 溝貝(どぶがひ)と方言(いふ)けるより此名あれど、ゐなかうどのくせとて、お のが心に、文字なンどもあらぬさまに書なすたぐひ、いつこにもいつこにもいと多 し。鳥居見えたるはいかなる神にやと人にとへども、しらじといらふを、
  よしさはれみぬさとらまし人ことにこやとふかひも
   なにのみやしろ
  (よくわからない、ゆっくり考えよう)
 
おほながねといふ山路しばし行ほどに、十文字といふ山路あり。此坂路(さかぢ) は、西は沢尻より入りて、東へ下れば細道口(さいだうくち)也。細道口より米代 川を渡れば、花輪ノ郷に至る也。また北へ下らば松山の関を越えて、神田(しむた) 村より米代川を渡り、錦木龍(龍冠+土、つか)を経て毛馬内郷に行ク也。また、 南へ行かば尾去沢の穴?場(かねやま、あなば?)へ入る。さりければ、此山路を 十文街(ともじがた、ともじまた?)にふみ分たる也、永慶単記ニ云ク……北弾正 と常陸ノ介が相躰坂にて戦い常陸ノ介に突き落とされる話し……。此十文字ながね を、逢対坂ならむといへる人あれど、さだかならず、馬手(めて、右手。馬の手綱 を持つ手)山道山の内なる獅子沢、笹小屋なンど見ゆ、瓜畠と云ふ山里を経て、追 子坂といふあり。むかしは、逢子坂とも云ひしところとなも云ひける。そのよしは、 旅なる父を尋ねて、いとけなき童のさまよひありきしが、夢に狭布ノ郡にて、おの が父に逢ふべしと、亡母(なきはゝ)のまさに告給ふと見えたり。此けふの子、こ ゝろいさみたちて、うれしさのあまり、夜をこめて此坂にかゝりけるほど、やゝ夜 はしらみぬ。かくて行ほど、旅人の、やつれたる衣の露にぬれて、やせつかれたる が坂中にふしたり。このけうの子、いづこへ行給う人にて此路中にはふし給ふもの か、国はいづこの旅人にてさふらふと、ねもころむとへば、国はしかしかのくにゝ て、すぎやうに国めくりたりしが、身にやまひおこりて、きのふのくれあゆみこう じて、ものもくはて、露をなめてふしたり、けふまでの命はさふらふなりといふ。 けうの子、そのおもざしを彳(つくづく)と見て、こはわか父にておはしけるよと て、手を取リてよゝと泣く。旅人聞キおどろきて、いかにしておのか子のはるばる と尋ね来りしぞかしと、子の顔と見て泣事かぎりなし。かくて此けうの子、なくな く父をいざない、おの(が:脱)ふる里へ皈(かへ)りき。さるゆゑをもて、逢子 坂とは云ふとなむ。
  うくひすに来てもあはなてほとゝぎす
   汝かちゝはゝは老て鳴く也
 
此坂や逢対坂ならむかし。西道口という一ト村をへて、米代川を綱曳キ渡りてけり。 西道山も西道口も、本ト細道(さいだう)にて、毛布(けふ)の細道より云ふ事な るを、字音(もじごえ)に伝へるのみ也。花輪の方をうち見やりて、
  時もいま咲や花輪の花かすみ
   霞へたてて見ゆる一さと
かくて花輪に至りて小田嶋氏の家(もと)につきたり。
 
 というとで、尾去沢を通り過ぎて往ったけですが、そのときが3月5日というから、 となれば前記の「時もいま咲くや花輪の花かすみ」はどういうことになるのか、今 でも3月の初めといえばまだ雪がある、まして当時は今よりはるかに雪が多かったと 思うから、つぼみも大いしてふくらんでいないだろう。当時は旧暦だとして、単純 に一月おくれとしても、まだ無理。旧暦では何年に1回かわからないが、2月が2回あ る年があるという、その年がたまたまそうだとすれば、2ケ月おくれとなるから花 (桜として)が咲き初めるということも考えられる。これは渡しの勝手な憶測で、 研究者にいわせればもっと単純なことかもしれないが、大たい「時もいま咲くや花 輪の花かすみ」というのは、桜の花が咲いているということではなく、別の意味か もしれない。今は真澄の解説本もいろいろ出ているようなので、そうした本を見れ ばわかると思うが、お前はそんな事も知らないのかとわらわれると思うが、小学校 頭の限界として、今後の宿題としておく。

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