菅江真澄、宝暦4年(1754)〜文政12年、江戸時代の漂泊紀行家、民俗学の先駆
者。
また、白井秀雄。三河国(愛知県)渥美郡生れという。1781年(天明1年)以後約
50年の生涯を信濃、越後から主として三陸、松前、羽後地方漂泊の旅に送り、角館
(秋田県仙北郡)近郊に客死。天明3年(1783、先に天明1年とある)三河を発ち、
はじめて東北地方を訪ね蝦夷へ渡った。行脚すること3年、本土へもどったのは寛政
4年(1792)であった。同年7月津軽領に入り、合計7年間の津軽逗留を終えて、秋田
に入ったのは享和1年(1801、47才)、以後死ぬまで(文政12年、1829)秋田をはな
れなかった。その間常民(民族学用語、民間伝承を保持している階層をいう。我国
では柳田国男が用いはじめた)の生活を多くの紀行文や写生画に克明に描き、好固
の民俗資料を残した。故郷では忘れられ、漂泊地で仮名菅江真澄で早くより知られ、
遺著は「真澄遊覧記」に纏められる(本名英二、名を知之、秀超、秀雄などという。
文化(1804〜1818)の半ばから「菅江真澄」の姓名を使う、という)。
この真澄は、土深井から十文字を通り瓜畑に抜け、鉱山は素通りして花輪の方に
行っている(これは南部藩直轄の御銅山ということで、何にか部外者を入れない制
約でもあったろうか、あれだけの紀行文を残している人が鉱山に関心がなかったと
は考えられない)。その真澄は鹿角には三回きているようだが、尾去沢に来たのは
三回目の文政4年(1821)3月で、今から180年前ということになる。今、瓜畑の入口
あたりに「菅江真澄の道、追子坂」という平成7年3月に菅江真澄の道建設実行委員
会の建てた標柱が立っている。
追子坂(おっこざか)の話しは、鉱山発見の話しは別として、尾去沢に伝わる唯
一の説話ではないだろうか。今は尾去沢でもその話しを知っている人はほとんどい
ないのではと、と思い、菅江真澄が「上津野の花」の中に書いている話しを抜書き
してみることにする(上津野 − 鹿角の古い書き方)。
真澄は土深井の方から入ってきているが、その土深井の地名のおこりも面白いの
で、そこから書くこととする。(鹿角市史第4巻より)
[地図上の位置(追子坂)→]
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