下タ沢会によせて(覚書)

わが家の紋 − モッコくる話し −

 話しがまたそれてしまったが、花輪の鏡田の方に相馬という名字が多いので、花 輪の人からよく、鏡田の出か、と聞かれたが、全然関係ないといっていた。ある時 鏡田の相馬という人に、家紋はなんですか、と聞いたことがあった。紋の名前は忘 れたが、私達の家とは違うので、やっぱり別系統だナ、と思った。私の家の紋は、 九曜星なので、相馬の野馬追いで有名な福島の相馬の殿様の流れかと思った(勝手 にこじつけた)。
 私が4ツか5ツの頃だったろうか、原因はなんだったかわからないが、伯母(幸 子の母)の家の庭(土間)で、いつまでも何んとかしていると山から「モッコ」く ると、おどかされて怒られた。よっぽどモッコというのはおっかねェものだと思っ たのか、怒られたのがおっかねェかったのか、その一度だけだが、モッコという言 葉が記憶にある。皆さんも、モッコがくる、とおどかされたことはあるだろうか。 それ以来、そんな言葉を聞くこともなく、いつの間にかすっかり忘れて何十年もす ぎたが、鉱山も閉山(昭和53年5月)になり、私は花輪のマルスイという卸売場に行 った。車の運転もできないので、片道1時間近くかかって行った。朝は4時半頃家を 出るので人通りも程んどない。子供の頃や下タ沢のことや、いろんなことを思い出 したり考えたりして歩いていたが、ある冬の朝、ポケットに手をつっこんで黙々と 歩いていたが、カク大の十字路のあたりで車をやりすごしていたとき、何んの脈略 もなく、ふっと「モッコ」は「蒙古がくる」だったんだ、と心に浮かんだ。文永の 役(文永11年(1274))、弘安の役(弘安4年(1281))の二度にわたった大事件だ った。時の執権芳情時宗は、日本中に大動員令をかけた、と思うから、この鹿角の 山里からも、博多の防塁をきづくためにモッコや天秤棒をかついで、馳けつけた人 達もいたかもしれない。それはまさか?として、福島あたりまでは直接影響があっ たのではないか、それで福島あたりにいたわが家の祖先は、モーコとはおっかねェ ものだということが身にしみて、時がたって下タ沢に流れてきても、そのいわれは わからなくなっても、言葉だけは伝えられてきたのではないか(下タ沢では、わが 家だけに伝えられてきたものとして、先祖は相馬の殿様となっていくわけですが、 そんなことはどうでもよいが)。

 しかしモッコはわが家の専売特許でもないだろうから、花輪の方の人に聞いてみ ようと思って、そのまゝにしていたが、今回こんなことを書いていて、待てよ、と 思った。花輪高校の先生を長くしていた、花輪の山谷昌人さんという人が、2〜3年 前に「花輪弁今昔(いまむかし)」という本を書いていたことを思い出して、開い てみた。と、あった、それは「恐ろしい物、怖い物、天の邪気……蒙古、幼児を脅 かす語」などとある。花輪の方でも使っていたんだとなれば、これで私の苦心?し てつくった、わが相馬家の殿様の流れ説は、オジャンになるわけですが(今どき殿 様だ侍だといっても、大して自慢になるわけでもないが)、それはいいとして、そ の語源については、何にも書いていないので、私の「蒙古」説もこじつけの域を出 ないナーと思っていたが、「鹿角のあゆみ」という本を見ていたら、その中に「元 寇」という項目があって、こう書いていた。「鹿角地方では、怖いものを「モーコ」 といゝ、例えば怪物、化物が来たというのを「モーコ」が来たという。蒙古来襲の 恐怖がこのような形をとって、伝播し残存しているのではないか」ということで、 私も納得、となったわけですが、こうしたことを書いていたときにNHKの来年(平成 13年)の大河ドラマが「北条時宗」だという話しが出たので、この蒙古来襲のとき の場面が大きな山場としてえがかれると思うので、今から楽しみにしている(この 下書きを書いていたのが去年のことだったので)。

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