下タ沢会によせて(覚書)

仏さんを分ける

 私の家に絵があった話しで、もう一つ思い出したが、先にダミコのことを書いた ときに、母の兄の長男の行列帳があるといったが、その母の甥の清一の死んだのが、 大正11年の1月(20才)、私の生れたの同じ年の9月、その前の年に私の兄が100日く らいで死んでいる。私の母が別家になったときと、この死んだ、生れた、の前後関 係の事情はよくわからないが、別家になるときに(と聞いた)、本家のバァさんが、 お前達の家には仏さんがないんだから、この仏さん(本家の清一)を持っていって 拝め、と分けてもらったといっていた。それで私の家にはその清一の位牌もあるし、 そのとき葬式の行列帳も一しょにもらってきたのだろうと思う。

 新しい家をはじめるときに、親達がその家を守ってくれる先祖の仏さんを分けて やる、それはお前達はお前達だけじゃないんだ、先祖があってお前達があり、先祖 はいつもお前達を見守ってくれているんだよ、ということだったかもしれない。昔 の人には、新しい家にはその家を守る仏さんを分けてやる、そんな考え方があった のかもしれない。
 それにしても、死んでから20年も30年もたった仏さんを分けてやる、ということ は一寸無理とも思われるので、私の家の場合、丁度生れた、死んだ、別家になった といったことが、一しょになって新しい仏さんを分けてもらった(分けやすかっ た?)のかもしれない。

 今の若い人達の家には、神棚も仏だんも無い家が多いと聞くが、神仏を否定する、 それが現代的というか、科学的というか、新しい時代の行き方だ、そもそも家その ものも否定している。その良し悪しは私にはわからないが、親があって私達があり、 それが脈々として先祖につながってゆく、自分の命を大事にするということは、親 を大事にすることにつながるし、先祖を大事にすることにつながってゆく。私はよ くいう、人間は木の股から生れてきたんじゃないんだと。今、テレビで日本人はど こからきたか、とかいう番組があるようだが、どこからきたっていゝじゃないか、 たゞ確かなことは、私達のいのちは、大昔から(この世に生命が誕生したときから) いのちから、いのちへと、受継がれてきたことだ。だから今の子供虐待などという のは論外としても、自分のいのちを受け継ぎ伝えていってくれる子供達を大事にし ていきたい。

 とはいっても、私もあんまりまじめに仏さんを拝む方ではなく、毎朝仏さんにゴ ハンを上げて、明りや線香をつけて拝んでくれているのがカーチャンで、何にかの 都合でいないときは、私が代行?するといった具合で、あんまりよい息子ではない が、気持はいつもそう思っている。

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