さて、その壬申戸籍だが、そういうものがあったということは聞いており、今で
いえば人権侵害のような記載があるので、みることはできなくなった、とうすうす
聞いてはいたが、更めて壬申戸籍とは、と聞かれても説明できないので、辞典など
で探してみた。
”壬申戸籍”、明治政府が編成した最初の全国統一的戸籍。1871年(明治4年) の戸籍法に基づき、翌72年から編成された戸籍で、72年の干支(えと)にちなみ、 壬申(じんしん。みずのえさる)戸籍という。華族、士族、卒、祠官、僧侶、平民 までの「臣民一般」を現実の生活単位なる「戸」で把握し、各戸に戸主をおき、戸 内の家族関係を戸長へ申告させた。国家がすべての国民を一元的に把握する全国統 一的戸籍の編成は、身分登録制度としての役割を果すとともに、治安の維持、徴兵、 徴税、教育、衛生、統計等の行政の基礎資料を提供し、明治政府の基盤確立に重要 な役割を果した。 三省堂の大辞林によると、…略…「四民平等」の推進を前提としていたが、士族、 平民、新へ移民などの身分差別呼称を残した、という。そこでもう少しみてみると、 新平民:1871年(明治4年)太政官布告によって平民に編入された。江戸期に賎民 扱された人々に対する差別的呼称。 平民:1869年(明治2年)華族、士族が設けられたのに対して、従来の農・工・商の 身分に用いられた呼称。 というが、私の古い謄本には、本籍地の下に「平民」と書かれている。鉱山に働 いていた人達は、農工商のうち、「工」の部類だったろうか。 上記の身分の中で、わからなかったのが「卒」、外のは字を見れば大体見当がつ くが(祠官は神主だろうし、僧侶はお尚さん)、そこでまた辞典の世話になる。 卒(そつ):下級の兵士、雑兵、足軽、とある。明治になって軍隊ができた頃は、 一番下は二等卒、一等卒といっていたような気がする。私達のときは、卒でなく兵 だった。二等兵、一等兵、上等兵と上って行く、日清だか日露だか忘れたが、木口 小平は死んでもラッパを口からはなしませんでした”の木口小平はラッパ卒だった と思う。私達の頃はラッパ手、また”輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば電 信柱に花輪が咲く”などというざれ歌もあった(また横道にそれたが、私もテッポ ウかついだヘイタイさんであったものだから)。 そこで別の事典をみると、この壬申戸籍をつくったとき、「平士以上の武士を士 族とし、同心や陪臣を卒とした」とある。平士は「ひらざむらい」(平侍)で、身 分の普通の侍という。同心は江戸幕府の諸奉行などの配下に属した与力(よりき) の下にあって庶務、警察の事をつかさどった下級の武士、時代劇などよく出てくる ”町まわり同心”、などという連中だと思う。陪臣(ばいしん)は、家来のまた家 来、というから要するに一番下ッパの武士だろう。”これでも武士の端しくれ”と 力んでいたやつらかもしれない。たゞ普通陪臣という場合は、諸大名の家臣を、将 軍に対して呼んだものとおぼえていたが、大名には大名の家来の家来がいたものと 思う。 卒で思い出したが、明治のはじめ頃を扱った映画などをみると、ら邏卒などとい うヒゲをたてた警察みたいなのが、いやにいばったり乱暴したりしているのを見る ことがあるが(邏(ラ)は、めぐる・みまわりの意)、この卒族?の連中が多かった のかもしれない。 邏卒(らそつ)は、明治初年各府県に置き、警察事務を取扱った職、巡査の旧称、 という。ついでに今の人達は軍隊と縁遠くなり、輜重輸卒などといってもわからな いだろうが、輜重というのは、軍隊の糧食、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称 で、これを運ぶのが輸卒で、後に卒でなく輜重兵特務兵と改称されたという。単に 輜重兵という場合は、これらの人達を指揮監督する兵隊で、兵隊の位でも馬に乗っ たいたとか、乗ることができたという。今の自衛隊はどんな組織になっているだろ うか。 |