下タ沢会によせて(覚書)

電話のはなし

 電灯といえば電話となってくるわけだが、今でこそ電話のない家はないという程 になったが、私達が子供の頃には、電話のある家など一軒もなかった。せいぜい田 郡の学校に電話があったくらいだったと思う。
 ついでに郵便局のはじまりをみると(鹿角のあゆみ)、花輪と毛馬内に郵便取扱 所のできたのは、明治7年3月25日であった。尾去沢では、尾去沢鉱山郵便取扱所が 明治26年(1893)11月1日にできて、明治39年1月1日尾去沢郵便局と改称された。  電話は明治43年(1910)12月11日、花輪、大湯。12日毛馬内、尾去沢。21日に小 坂の各郵便局おいて電話通話事務が取扱われた時が最初である、という。

 一般家庭や事務所に電話機が取付けられたのは、大正時代に入ってからで、大正 5年1月21日花輪局、4月8日小坂局が交換を開始した、という。花輪局は最初は29番 までで、1番は鹿角郡役所、2番は花輪町役場、尾去沢関係では4番甲尾去沢村役場、 乙鉱山石木田店、10番尾去沢鉱山、17番尾去沢鉱山ホテル、19番尾去沢鉱山販売所 等であった、という。

 当時電話機の設置場所は、郵便局のみであったというが、その市外通話料金は、 花輪尾去沢間5銭、毛馬内尾去沢間及び大湯尾去沢間は拾銭であったという。今、電 話料金の値下げ競争が続いているが、この料金は高かったろうか、安かったろうか、 といっても見当もつかないが、米の値段を見ると、明治40年は10K1円56銭、大正元 年は1円78銭であったという記録があるから、乱暴に単純平均して1升(1.5Kとし て)25銭、とすると尾去沢花輪間の5銭は高いか安いか、と思ったが、今頃米1升い くらで売っているところはない。ともあれ1升25銭とすれば、5銭で買える米は2合と いうことになる。当時の物価全体をみなければわからないが、一通話5銭は高かった のだろうと思う。現在一通話10円として(安くなっていると思うが)みると、5銭の 200倍。また米にもどって昭和55年に10K3,250円という記録があるが、現在でも大 体そんな値段で買える、となれば米の価値は上ったのか下ったのか。今10円で(一 通話の料金)米をいくら買えるだろう。仮りにわかりやすく10K3,500円として計算 すると1K350円、となれば10gで3円30銭、10円で買えるのは30g、大正の初めに 5銭で2合買えたというのは、300g買えたということになる。いよいよ頭がこんがら かってきたので、物価がどうのということは、専門家にまかせるとして、私達が子 供の頃市日帰りを待っていたアメ玉が1銭で2ケ、ということは1ケ5厘、今市販のア メ玉は別として、鹿角で手作りのアメ玉を作ってくれるところはほとんどなく、た だ尾去沢の田中菓子やさんが頼めば作ってくれるが、1ケ10円。5厘の何倍だろう。 私が鉱山に働きに行ったのが昭和13年、その頃生菓子といっても今のモチ菓子だが、 10銭で4ケ、今花輪のお菓子やさんで1ケ160円くらい、もちろんプラスチックのケー スなどに入って、すましているが。皆さん、ひまなときは子供の頃と、今の物価を くらべて、ひまをつぶしてみて下さい(米の値段は「値段の明治・大正・昭和風俗史」 (朝日新聞社、昭56年刊)による。これによると、なぜか大正5年は1円20銭と安く なり、大正8年には3円86銭とはね上っている。これは第一次世界大戦(大正3〜8 年)の影響によるものだろうか、私にはわからない。)

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