また下タ沢のお寺の前、向って右側の山よりに、地蔵さんのあったことは皆さん
ご存知のとおりですが、その地蔵さんを囲っているお堂(というよりも屋根と三方
を囲った小屋?)もこわれて野ざらし同然の状態となっていたので、秋田のトーサ
ン(相馬与一郎)と大館のトーサン(相馬与七郎)と私(相馬茂夫)とで話し合っ
て、大館のトーサンが尾去のお寺に行ってお願いして、これも長泉寺の境内に安置
してもらうこととし、日を改めてお尚さんに同行してもらい、大館のトーサンと私
と、蟹沢にいて大工をしていた松岡正昭(ヒサの妹ハルヱの二男)にはトラックを
持って行ってもらい、お尚さんに拝んでいただいて、地蔵さんをかついで(お尚さ
んも一緒にかついでくれました)、下の道路まで下ろし、トラックに乗せて長泉寺
まで運んだ。10日ぐらいして正昭に頼んでおいたお堂ができたので、その中に安置
し、お尚さんに拝んでいただいて、私達本家別家三人(秋田のトーサンもきました)
と正昭、それに長泉寺の檀家総代の高杉正巳さん(西道口)にも入っていただいて
直会をした。
下タ沢の人達もそれぞれ各地に移住してバラバラになっているので、皆さんに呼 びかけて相談して、といっていると、いつになるやら見当もつかないので、いつま でもこうしておかれないと、とにかく私達本家別家でやることにした。それからし ばらくして、このことを聞いた内田真佐博さんが、是非私も協力したいということ で、お堂を建てた経費(15~6万円であったと思う)は、4人で負担した(この移転 は昭和56年頃であったか、後で調べてみる。)。 その後の管理については、私も春、秋の彼岸やお盆などのときより、お寺に行く こともないので、ついそのままにしがちですが、長泉寺の檀家の婦人部の人達がい つも掃除をしてくれたり、帽子や前かけ、肩からはおる着物(衣?)などをつくっ て、大事にしてくれているので、大変有難いことだと感謝しております。また平成 9年にお尚さんがこのお堂に立派なサッシの戸をつけてくれました。自分も行って、 かついで連れてきたという思いも深いのか、おかげさまで無住の地となった下タ沢 に長い間お参りに行く人もなく、野ざらしになっていた地蔵さんも、今はゆっくり して、お参りにくる人達を守っていてくれると思います。またその後、下モ平の高 杉米屋さん(畠山清四郎さん)の奥さんが次のような歌をつくって、松舘(?)に いる渡部春香さんに書いてもらって、横長の額に入れてかざってくれました。おか げさまで、お地蔵さんのお顔も一層ふくよかに拝まれます。 ”おら方のお寺のお地蔵さま、赤い傘もち御座します 皆さん御利益あるように、真心こめて手をあわせ” このお地蔵さんは、昔から下タ沢にあったように思っていたが、地蔵さんを移す ときに、この地蔵さんを建立するときに寄付をいただいた人達の名前(ほとんど女 の人達だったように思う)を書いた札(1尺×6尺くらい)があった。もともとあっ たろうが、気をつけてみたこともなかったが、それによると、下タ沢のお母さん達 が発起人(3人だったと思う、なんとか読めたのでメモしていたが、どこかへやって しまった)で、主として元山関係の人にお願いしたと思われるが判読困難で、ただ 絶てた年は昭和11年であることはわかった。昭和11年といえば、トヨ子さんのおじ いさんの頌徳碑を建てた年で、11月には中沢ダムが決壊し、私は高等科の2年であっ たから、何にか記憶にあってもいいはずだが、全然記憶にない。仏さんのことなど には、全然関心がなかったのだろう。その名前を書いた板も大事に持ってきて、地 蔵さんの後ろに立てかけてあるが、今の進歩した科学的方法によれば、読むことは 簡単だろうと思っている。 |