下タ沢会によせて(覚書)

お寺のその後 − 仏像・鐘・地蔵さんが一所になりました −

 そのうちにお寺もなんとかしなければと話しているうちに、とうとうつぶれてし まつた。それは何年の年であったか、たぶん昭和61〜2年頃の6月の初めの頃であっ たと思う。朝、大館のトーサンから電話がきて、つぶれたお寺はいつまでもそのま まにしておかれないから、俺はこっちから行くから、お前はそっちから来い、とい うことで、大館のトーサンは十二所まで汽車、別所、下新田と歩いて下タ沢へ、私 はナタを下げて1Mくらいのズングリした太いテコを持って、マインランドから十二 所花輪線を下新田の方に向って歩いた。下モの蟹コ沢の出口の上の大きいカーブの ところから、真直ぐヤブを下って沢の出口に出て、下タ沢へ行った。

 二人でつぶれたお寺の柱や板やガラクタ(屋根は杉皮ブキだったろうか)など全 部後ろに片付けて、まとめて積んだ。お椀や茶碗、小皿などもいっぱい出てきたが、 それらも一所に片付けた。そうした中から、火焔形というか、ローソク立ても出て きたが、曲ったりねじれたりしているので、これは持って行きようがない、と積ん だ木材の前に立てかけた。鐘は二ツ出てきた。一ツは鉄板のような感じで、つぶれ たりヒシャゲたりしていたので、それはローソク立ての前にならべて拝んだ。あの ジュズまわしに使ったジュズも、そのとき叩いた平らたい鐘もなかった。もう一ツ の鐘は、いわゆる唐金の鐘で、肉厚つでしっかりしていた。少し緑青をふいた感じ だが、これは持って行って尾去のお寺にお願いしよう、ということにした。幸い? ヘビもマムシも出なかった。

 仕事も一段落したので、私がオニギリを入れた行ったナイロンの袋に、唐金の鐘 が丁度よくすっぽり入ったので、持つ手のところにテコを通して、二人で持ったが、 これが中々重かった。下タ沢を出るまでに何度も休んだ。やっと県道に出て、下新 田の方からくる、あの真直ぐな坂道を上るのに、三度も休んだ。この鐘も下タ沢が 名残惜しくて行きたくないのだナーと思ったが、なにせ重い。下モの蟹コ沢に沿って奥 まで行ったところの大きいカーブをまわったところで、これから先の距離を考える と、とてもじゃないということで、道路の脇のヤブに目立たないようにかくして、 そのうちに車の便でも見つけて、取りにこようということで帰ってきた。天気のい い暑い日だった。

 それからしばらくして、蟹沢の正昭が大館のトーサンから少し仕事を頼まれて行 くから、一緒に行ってみないかと電話がきた。鐘のことが頭にあったので(正昭は 鐘のことは知らない)、早速一緒に行って、帰りに鐘をのせてもらってきた。  きれいに洗っておいて、お盆のお墓参りのときに、尾去のお寺に持ってゆこう、 ということで、我が家のカーチャンにあり合せの赤いシュスの布で鐘のお尻りが乗 る程度の薄い小さい座ブトンを作ってもらった。お盆のときに正昭に鐘をのせる台 と叩く棒を作ってもらい、タクシーを頼んでお寺に行って、お尚さんに事情を話し てお願いした。この鐘は、今も本堂正面の仏壇の前で、朝夕のおつとめをしている。

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